、家の四方に水をかけた。女もそれに手伝つた。二人はすでに水だらけだつた。火はすでに近づいてゐる。前後左右全部である。大きすぎる火であつたが、いよいよ隣家へ燃えうつると、案外小さな、隣家だけのものであり、火の海の全部を怖れる必要がないといふ確信がわいた。
 野村はそれほど活躍したといふ自覚をもたないうちに、隣家の火勢は衰へ、そして二人の家は焼け残つた。一町四方ほどを残して火の海であるが、その火の海はもはや近づいてこなかつた。
「どうやら、家も命も、助かつたらしいぜ」
 女はカラのバケツを持つたまゝ、庭の土の上に仰向けに倒れてゐた。精根つきはてたのである。野村も精根つきはてゝゐた。
「疲れたね」
 女はかすかに首を動かすだけだつた。疲労困憊の中では、せつかくの感動も一向に力がこもらない。けれども、ふと、涙が流れさうな気持になつた。それで、ふと、女の顔を見たい気持になつたのだが、のぞきこむやうに女の顔を見ると、
「あなた」
 女は口を動かした。死んだやうに疲れてゐた。野村もいつしよに土肌にねて、女に口づけをすると、
「もつと、抱いて。あなた。もつと、強く。もつと、もつとよ」
「さうは力がなく
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