「えゝ、でも」
 女の顔には考へ迷ふ翳があつた。
「消せるだけ、消してちやうだい。あなた、死ぬの、こはい?」
「死にたくないよ。例のガラ/\落ちてくるとき、心臓がとまりさうだね」
「私もさうなのよ。でも、あなた」
 女の顔に必死のものが流れた。
「私、この家《うち》を焼きたくないのよ。このあなたのお家、私の家なのよ。この家を焼かないでちやうだい。私、焼けるまで、逃げないわ」
 そのときガラ/\音がすると、女は野村の腕をひつぱつて防空壕の中へもぐつた。抱きしめた女の心臓は恐怖のために大きな動悸を打つてゐた。からだも怯えのためにかたくすくんでゐるのである。なんといふ可愛い、そして正直な女だらうと野村は思つた。この女のためには、どういふ頼みでもきいてやらねばなるまい、と野村は思つた。そして彼は火に立ち向ひ、死に立ち向ふ意外な勇気がわきでたことに気がついた。
「よろしい。君のために、がんばるぜ、まつたく、君のために、さ」
「えゝ。でも、無理をしないで。気をつけて」
「ちよつと、矛盾してゐるぜ」
 と、野村はひやかした。溢れでる広い大きな愛情と落付をなつかしく自覚した。諸方の水槽に水をみたし
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