は怒つたのではなかつた。女は泣きながら、泪《なみだ》のたまつた目でウットリと野村をみつめて、祈るやうに、さゝやいた。
「ゆるしてちやうだいね。私の過去がわるいのよ。すみません。ほんとに、すみません」
女は野村の膝の上へ泣きくづれてしまつた。野村はその可憐さに堪へかねて、泣きぢやくる女に口づけした。泪のやうに口もぬれ、その感触が新鮮であつた。野村は情感にたへかねて、女を抱きしめた。女は泣き、身もだへて、逆上する感激をあらはし、背が痛むほど野村を抱きしめて離さなかつたが、然し、肉体そのものの真実の感動とよろこびはやはり欠けてゐたのである。野村は心に絶望の溜息をもらしたが、それを女に見せないやうに努めた。けれども女はそれに気付いてゐるのである。なぜなら、亢奮のさめた女の眼に憎しみが閃いて流れたのを野村は見逃さなかつたから。
★
野村の住む街のあたりが一里四方も焼け野になる夜がきた。何がさて工場地帯であるから、ガラ/\いふ焼夷弾はふりしきり、おまけに爆弾がまざつてゐる。四方が火の海になつた。前の道路を避難の人々が押しあひへしあひ流れてゐる。
「僕らも逃げるとするかね
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