あどけない土人形のやうであつた。
「戸張さん……」そして、又――
「戸張さん……」
私の名前を呟くことによつて自分の心を空虚の中から探し出さうとするやうに、そして又、おどおどと怯えきつた様をして、私の気勢を怖れるやうに躊躇《ためら》ひ乍ら、長く佇むのであつた。何故と言へば、私は、私の安息を乱されることに由つて決して愉快ではなかつたので――兎も角も起き上りはして、坐り直しはするが、磐石のやうに苦りきつて忌々しげに畳を睨み、或ひは窓外へ眼を逸《そら》して、晴れた日の、又薄曇りの坂下から、坂の上へ流れて行く静かな風景を拾ふのである。すると、もんもんと鳴きしづもる一万の蝉が、静かに、深く遠くシンシンとして、私の部屋に籠つてゐるのが分り初めるのであつた。――
然し私は、已に凡ゆる寛容さを打ち忘れて、斯る幽邃《ゆうすい》な大自然にも私の怒りを慰め得ない狭小な人間と化してゐたので、まだ臆病に躊躇ひ乍ら佇んでゐる主婦の姿に、バリ/\と歯を噛むやうな苛立たしさを覚えずにはゐられなかつた。
「おひま[#「おひま」に傍点]でせうか? 戸張さん……」
「ああ、騒がしい。ああ、私は私は――」私は全く逆上して
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