ゐることも容易な業ではなかつた。別段に盛夏の暑気が堪え難いといふわけではなく、私は、汗にまみれて寝てゐることにさしたる苦痛を感じないのだが――この一家では、凡そ扉といふものが一部屋に一人を守る砦とは解せられずに、専ら人々を運び込んでくるのであつた。第一に、この家の主婦が舞ひ込んでくる――
宿の主婦は芸妓あがりで、四十五六の年配であらうか、昔はさる人に囲はれてゐたが、その人に死別してのち、今は長唄の師匠であつた。面長の美人であるが、蒼白で、痩せ衰へて、この年齢まで持ち堪《こた》へてきた花やかさが遽《あわただ》しげに失せやうとし、日毎に老ひ込むやうであつた。陰鬱な日は、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》に大きな膏薬を貼つてゐた。
日に数回のことさへあつた――お稽古に手すきの度に私の部屋へ現れてくる此の人は、そのとき、自分でも自分のことが分らぬやうに朦朧とした風であつた。「戸張さん……」噛みわけるやうに、幽かな声で私の名前を呟き乍ら――本来は神経質な、聡明な顔付をした人だのに、全く空虚な、意識の欠けた顔をして私の部屋へ現れてくると、目、鼻、口がバラバラに見えて不思議に
前へ
次へ
全32ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング