私は、宿の二階にウトウトと、又、グッスリと、寝倒れてゐるのだ。勿論、考へることは、何一つとして無いやうである。
斯うしてボンヤリしてゐると――私の下宿は坂の真下に当るうへに、深々とした欅の木立に取り囲まれてゐるので、夏の盛りであるといふのに終日陽射しを受けることなく、ジインと静まり返つてゐる。気がつくと、坂下の街一杯に蝉の音《ね》が澱んでゐるのだ。日盛りにも、高い場所には綺麗な風が吹き渡るものとみえて、欅の頭に颯々と葉の鳴る音が聴えたりする。黄昏のこと、夕立の来る気配がして、頻りに冷いものが流れ、何かしら緊張した冷気の中に、重苦しげな灌木の葉摩れや、又、高い空には欅の繁みが葉先を立てて、不気味に戦《そよ》いだりしてゐることがあつた。さういふ夕辺も、あつたのである。時々、我に返ると――(私は嗤はれることを厭はないが――)私は泪を流してゐるのであつた。如何とも仕方がないと言ふほかはない。別に意識のあるわけでなし、心を鎮めて伏してゐると、果ての知れない遠い処に澎湃《ほうはい》と溢れ、静かに零《こぼ》れるものがあつた。
ところが、私の下宿では、(これは素人下宿であるが――)、ボンヤリと寝て
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