よせ! ああ、苛苛々する。他人の迷惑が分らぬか!」
しかし非力な此の小男は、笛六の襲撃に備えて、充分逃げ腰に身構えてゐるのであるが――突嗟に攻勢の向きを変えた笛六は、決して一声の呻きさへ立てやうとせずに、凄じい響きと共に此の小男に襲ひかかり――これも亦、息を詰めて一散に逃げはぢめた小男と、二人ながら全く無言に、重なるやうな跫音《あしおと》のみを階段へ残して――私は、間もなく坂道の一方に、彼等の走り去る低い跣足《はだし》の跫音を耳にするのであつた。
私は、折にふれて思ふのであるが、斯の様に殴り通しの、斯の様に殴られ通しの夫婦といふものは、極く稀にしかあるまいと思はれるのだ。立派な個性を持つた女が、寧ろその亭主よりも聡明にさへ見える女が、一つの悲鳴さへあげやうとせずにただ殴られてゐることは、同情に価ひするよりも、寧ろ不愉快に価ひするものである。私はせめて、彼等の喧嘩が、何等かの甘さを以て終ることを私《ひそ》かに期待するものであつたが、その事は全く無くて、妻君は常に殴られ、笛六は常に殴つて一日を終つた。和解といふことさへなしに、彼等は、存分に殴り、存分に殴られ、荒々しい気持のままに睡り
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