て門の内へ這入らうとする私へ、慎しみ深い会釈を与へて、
「さようなら。では御大事に、ね。近いうちに、きつと全快なさいますわ」
「あ、あなたも、あなたも――」
 私は全く狼狽して、
「あなたも、幸福になります――」
「ええ、ありがとう……」――
 空の模様といふものを、街の色彩といふものを、私は斯様なハヅミによつて、漸く意識に入れがちである。
 扨て、私は、この不思議な道連れに就て、その理由を語る前に、更に第四の騒音として、暫く田代君夫妻のことを述べなければならない。
 田代笛六、――この勤勉な会社員は、矢張り私を甚しく悩ますところの、一個の算盤であつた。夢にさへ――私は時々、不思議な夢を見るのであるが、例へば――尨大な一個のピラミッドが、しつきりなしに微細な多くの三角形に分解しながら、どうしても其の原型を失はない焦燥に満ちた夢なぞと一緒に、疑ひもなく私は、田代笛六の平凡な顔を、焦燥をもつて夢の中に仰ぐのである。その顔は、私が切に消え去ることを祈るにも拘らず、頑固に消え去らうとはしないのであつた。そしてそれは、平凡な、且《かつ》勤勉な彼自身に何の咎があるわけでなく、それの存在それ自身が甚
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