けて来て、彼女はツと階下の気配へ耳を欹《そばだ》てたかと思ふと――決して挨拶の言葉すら返すまいとするかのやうな苦りきつた私に向つて、彼女も亦決して聞き取れる言葉では別れの挨拶を述べやうとせずに、再びあの、立ち現れた時の、朦朧として夢のやうな顔、形をして、戸口の向ふへ消えて行つてしまふのである。すると忽ち階下から、お嬢さん、大変姿勢が悪うござんすよ、もつとお嬢さんらしく、グッと斯う気取つて……と、まるで違つた音声で言つてゐるのが聴えてゐる。
そこで私は、そのとき何物かの気配に由つて已に全く孤独であることを納得せしめられて、――然し、もはや、その静穏な孤独も悦ぶ気力のない私は、やがて甚だ沈鬱な動作と共に、ガッカリとただ寝倒れてしまふのである。するとそれらの一点に於て、殆んど信じ難い唐突な一瞬間に、盛夏の鮮やかな風物が、耀やく屋根が、懶うい径が、鳴きしぐれる蝉の音が、頭上に近くさやさやと鳴る微かな風が――忽ち展かれた窓のやうに、そして忽ち閉ぢられて行く窓のやうに、爽やかに滲み溢れて――そして又、闇のさ中へ還へるのである。
騒音の第二――私は、(当然私と呼ばるべき断乎たる一聯の感情は)、断乎として――私は、ここの倅を好まないのだ。私は、(私は、私は――)、金属性の物音が嫌ひである、私は、(私は私は――)全て金属的な存在が、金属的な神経が、嫌ひである。ところで、ここ[#「ここ」に傍点]の倅は、真鍮喇叭《しんちゅうらっぱ》であつた。
この不愉快な金属は、最近まで経済科の大学生であつたが、今は止して、専ら何事もしてゐなかつた。何事もすることがないので、気違ひの真似や、自殺の真似をするのであつた。決して人の神経を顧慮することのない、野性的な、ベルトのやうな神経をもつて、十|瓦《グラム》ほどのカルモチン錠剤を嚥み下してみたり、遺書を残して行方を晦ましたり、常に何事かの騒音を惹起することに由つて、其の存在を認識せしめやうと企むかに見えた。
麗かな朝、陰鬱な朝、――朝は概ねヒッソリとして階下の一室に閉ぢ籠つてゐる男は、午過ぎ頃になると突然 wachchchchch と張り裂けるやうな悲鳴をあげて、「|俺はつらい、拙者は悲惨だ!《ジュ・シュイ・トリスト オー・ミゼラブル!》」と嘆き乍ら手足をバタバタ力一杯に畳や壁へ打付けてゐるが、軈てやにわ[#「やにわ」に傍点]に自分の部屋を飛び出たかと思ふと、家中の戸をひとわたり(勿論私の戸も――)蹴倒してしまひ、「ああ、不潔だ、ああ不潔だ、この濁つた空気は堪え難い、めまひ[#「めまひ」に傍点]がする、窒息しさうだ、w―w―w―w―w…………苛々する、ああ、苛々する、wachchchchch……」――坂道の一角を指して(其処には広い睡むたいやうな静かな緑が展けてゐるが――)走り去つてしまふのである。又例へば、真夏の宵の、厚みの深い薄明がジットリと流れかかる時分に、殆んど言ふべくもない静寂に同化し乍ら、私が、夕食の膳に向つてゐると、突然この不愉快な金属は、決して私を問題にしない無関心な顔付をして私の部屋へ這入つて来たかと思ふうちに、不意に食膳の上へ屈み、焼魚の尾鰭を二本指先で撮《つま》みあげて、汚ならしさうに窓の外へ投げ出してしまひ、「ああ、この悪臭には実に悩まされた――」と呟き乍ら清々して立ち去らうとするのである。事実といふものを決して即座には呑み込むことの出来ない私は、彼が已に後姿になつてのち初めて劇しい憎悪に襲はれるのであつたが、すると彼は、(内心私の激昂を決して無視してはゐなかつたので)、忽ち後姿にも生真面目な恐怖を表はして、しかも尚無関心を装ほひ乍ら、面白さうな足どりで階段を降るのであつた。私は覚えず逆上して――その時已に彼の閉ぢ籠つた階下の一室を荒々しく開け放ち、
「ああ、騒がしい奴だ。貴様は実に、鼻持のならない奴だ、ああ、貴様は……」
「ア、ア、ア、不潔だ、不潔だ――」
彼は怯えて――狼狽と反抗とで蒼白な頬に痙攣を起し乍ら、熱狂して、見えない敵と闘ふやうに打ち騒ぎはじめるのであつた。
「出て行け! お前は出て行つてくれ! お前を見ると胸がむかむかしてしまふ。苛々する。ア、ア、お前は俺を殺すのか――」
「ああ、騒がしい。ああ、騒がしい……」
「ア、ア、俺は自殺する。俺は自殺してしまふ……」
「うるさい、ああ、うるさい。実に、騒がしい奴だ、ああ、俺は間もなく死んで行く人間なんだぞ――ああ、俺は……」
「ああ、堪えられない。実に不愉快だ。俺は生きてゐられない。アア、全く暗闇だ……」
彼はやにわ[#「やにわ」に傍点]に座布団を取り、劇しく私に叩きつけると、その隙にいち早く私の横を擦り抜けて、wachchchchch――坂道の一方へまつしぐらに走り去つてしまふのである。
第三の騒音――
扨《さ》て
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