ゐることも容易な業ではなかつた。別段に盛夏の暑気が堪え難いといふわけではなく、私は、汗にまみれて寝てゐることにさしたる苦痛を感じないのだが――この一家では、凡そ扉といふものが一部屋に一人を守る砦とは解せられずに、専ら人々を運び込んでくるのであつた。第一に、この家の主婦が舞ひ込んでくる――
 宿の主婦は芸妓あがりで、四十五六の年配であらうか、昔はさる人に囲はれてゐたが、その人に死別してのち、今は長唄の師匠であつた。面長の美人であるが、蒼白で、痩せ衰へて、この年齢まで持ち堪《こた》へてきた花やかさが遽《あわただ》しげに失せやうとし、日毎に老ひ込むやうであつた。陰鬱な日は、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》に大きな膏薬を貼つてゐた。
 日に数回のことさへあつた――お稽古に手すきの度に私の部屋へ現れてくる此の人は、そのとき、自分でも自分のことが分らぬやうに朦朧とした風であつた。「戸張さん……」噛みわけるやうに、幽かな声で私の名前を呟き乍ら――本来は神経質な、聡明な顔付をした人だのに、全く空虚な、意識の欠けた顔をして私の部屋へ現れてくると、目、鼻、口がバラバラに見えて不思議にあどけない土人形のやうであつた。
「戸張さん……」そして、又――
「戸張さん……」
 私の名前を呟くことによつて自分の心を空虚の中から探し出さうとするやうに、そして又、おどおどと怯えきつた様をして、私の気勢を怖れるやうに躊躇《ためら》ひ乍ら、長く佇むのであつた。何故と言へば、私は、私の安息を乱されることに由つて決して愉快ではなかつたので――兎も角も起き上りはして、坐り直しはするが、磐石のやうに苦りきつて忌々しげに畳を睨み、或ひは窓外へ眼を逸《そら》して、晴れた日の、又薄曇りの坂下から、坂の上へ流れて行く静かな風景を拾ふのである。すると、もんもんと鳴きしづもる一万の蝉が、静かに、深く遠くシンシンとして、私の部屋に籠つてゐるのが分り初めるのであつた。――
 然し私は、已に凡ゆる寛容さを打ち忘れて、斯る幽邃《ゆうすい》な大自然にも私の怒りを慰め得ない狭小な人間と化してゐたので、まだ臆病に躊躇ひ乍ら佇んでゐる主婦の姿に、バリ/\と歯を噛むやうな苛立たしさを覚えずにはゐられなかつた。
「おひま[#「おひま」に傍点]でせうか? 戸張さん……」
「ああ、騒がしい。ああ、私は私は――」私は全く逆上して、
「ああ私は、私は何時も、一日中、毎日毎日毎日毎日、静かに、ヂッと、考へてゐるのですよ。私を静かにしておいて下さいと言ふのに……」
「戸張さん、戸張さん……」
「ああ、騒がしい。ああ、騒がしい。私は、私は――ああ、もう間もなく死んで行く人間ですから……」
「ああ、戸張さん、戸張さん、私は……」
 私の逆上と彼女の混乱とをゴッチャにして、これも全く逆上してしまつた主婦は、崩れるやうに私の真向ひへ坐つて――
「戸張さん、戸張さん、本当に、おお、私はどうしませう。もう、もう生きてゐるのも容易ではありませんよ――」
 そして溢れる泪と一緒に流れるやうに喋り出すが、間もなく次第に生き生きとして――しかし、話それ自身は、聞き手の私から全く独立して、私の返答や私の存在は話の中へ交通する余地が、もはや全く無かつた。私は話の始終といふもの、決して愉快な顔付はせず、唯むやみに苦い憂鬱な顔付をして、首を左右に揺さぶつてみたり、冷笑に似た自棄な笑ひを唐突に、横向きさまに浴せかけたりするのみである。そしてその話といふのが、ああ、ああ、ああ、毎日毎日同じ同じ話なのだ。一人息子の悪口である。当節の暮しにくい世相の話と、旦那様の生きてゐた頃の追憶と、そして、それから金光教の信心話だ。今朝は倅に何処をひつぱたかれ[#「ひつぱたかれ」に傍点]たとか、本郷の金光教会までは電車賃でも拾四銭は必要だし、御供物もあげねばならず、教会の親切な書生さん方へお茶菓子も買つてあげたいから、どうしても一円五拾銭はかかるのに、茶箪笥へ仕舞つておいたら倅の奴が浚つて逃げた――。すると急に、私の苦りきつた真つ暗な顔をうかがつて、団子坂の菊は豪勢なものであつたとか、昔の吉原の道中は、又新橋はと、遂に徳川家康の話へまで移るうちに、先年亡くなつた娘の思ひ出を語りはぢめて――本当に利発な、そして母親思ひの愛らしい子であつたのに、もし今も尚健在であつたなら、この温和しい戸張さんと、どんなに似合の夫婦であらうか――臨終に紅葉のやうな(――彼女は必ず執拗に此の形容を忘れなかつた)可愛いい手を合せて、あたしの魂はお母さんに乗移つて何時までも何時までもお護りしておりますよ、お母さんを幸福に導いてあげますよ……と、声も科《しな》も幼い少女のものを真似て、果てはオロオロと泣き伏してしまふのである。
 すると、さうこうする中に、お弟子さんが詰めか
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