、私は曩《さき》に、恰も私は、終日終夜堅く外出もしないやうに述べたのであるが、然し私は、一定の時間には必ず一度、外出しなければならなかつた。勿論それは、気分の上に於て、いはば全く区劃の不鮮明な茫漠さを、内より外へ運び出すに過ぎぬのであるが――一日のうちに一度づつ、その事があつたのである。
 そこで、私は、最も簡単に言ふのであるが、私はもはや死ぬのであつた。私はもはや、長くないのである。――私は、朝の洗面に、血痰に悩まされるのであつた。そして私は、私の吐き出した物に対して、その幾分か不気味な、丁度栓を抜くやうに空虚な喉ざわりのほかには、決して特別の愛情も、扨て又特別の美意識も懐くわけではなかつたが、私は、一応洗面器を持ち上げて、吐き出した赤いチラチラするものを、流しの上に探し出さねばならなかつた。そして又、私は、狼狽を隠すためではあるまいけれど、様々な別なことを考へやうとして、結局何事も思ひつかずに、ボンヤリと赤いものに眺め入つてゐるのであつた。
 私は毎日、病院へ通ふのである。灰色な、あの厳《いか》つい石門を潜つて、大きな建築の中に生命の見窄らしさを威嚇されたくない私は、そして、白い着物を着た、決して親愛を顔に出さうとしない人々から、邪魔者の(殆んど世の中にさへ――)のやうに眺められたくない私は、そして又、何物かの追求のために全く目まぐるしい活気に満ちた廊下を、あのベタベタと鳴るスリッパの世界を、脇見をしない白い人々の往来を、眺めたくない私は、(私はそれをそんなに強く怖れたわけではないだらう。然し私は些少の嫌悪にも堪え難いから――)、斯うして私は、腕の確かな、しかし非常に平凡な、そして相当に貧乏な、(決して石の家には住まつてゐないところの――)、更に又、時々私がわけの分らぬ独語《ひとりごと》を思ひ余つて呟く時にも、きつと其の人はビックリして私の顔を凝視めながら、ぼやけた声で「何ですか――」と訊いてみて、自分の方で赤面してしまふやうな――私は、斯様に好人物なドクトルを、探し出すことが出来たのであつた。
 その人は私の症状に就て、全く漠然としか語ることを好まなかつた。そして、白い漆喰の方を向いて手を洗ふ時にのみ極つて、もう殆んど全快に近いこと、本来非常に軽微な症状でしかなかつたことを、その時だけは語気を強めて、然し次第に語勢の落ちた小さな呟きのやうにして、遂には結局手垢と手と共に洗ひ流してしまふやうに、呟き終はるのであつた。そして今度は私の方を振り向いて、もし私の気さへ進むなら、転地してみるのも悪い試みではないことを、早口に、ごく簡単に述べるのであつた。しかし、私は、殆んど旅の経験を持たない人間であつたので、汽車に乗ること、見知らない土地へ向つて一人走り去ることの心細さや、旅先での様々な煩瑣な心遣ひのことなぞが、私を重たくして、私はそれを考へることも寧ろ好まないやうであつた。
 そして私は、この単純な白漆喰に取り囲まれて、簡潔な、直線的《リネエル》な医療機械に護られてゐると、凡有《あらゆ》る蟠《わだか》まりを発散して、白痴のやうにだらし[#「だらし」に傍点]なく安心したい気持になつた。時々、私の顔はだらし[#「だらし」に傍点]なく夏のさ中へ溶け込もうとし、私は、睡むたげな空気となつて、蝉のやうなヂンヂンを唸り出したい幻覚に襲はれるのであつた。何故ならば、この真白な診察室にも矢張り、夏は訪れてゐて、細長い南の窓から、翳りの深い、脂ぎつた夏の樹と、泌みつくやうな濃厚な空が、その葉を越えて展らけてゐた。不図した些細なハヅミに由つて、私の凭れる廻転椅子は、睡りのやうにユラユラと滑り出しさうになり、そして、白い空虚な部屋の中には、此処にも矢張りもんもんと滾《たぎ》る蝉の音《ね》が木魂してゐた。
 扨て、一定の時間が来て、(朝の十時がその時である――)、愈々私は出発しなければならない時がくると、私は、出掛けるにはまだ少し早すぎる時間であると考へてみたり、何かしら満ち足りない気持がして、又暫くは窓に凭つて外の風景を眺めたり、懐を探つてみたり、そして静かに倒れ伏したりするのであつた。すると、さういふ何かしら物騒がしい気配に由つて私の出発を感知した隣室では――
(其処には田代君夫婦が間借をしてゐたが、朝早く、已に夫君を会社へ送りだした其の夫人は――)
 その妻君は、私の気配を知つて、矢張り外出の仕度をしはじめたのであつた。ある理由によつて、私が不在にするときには、必ずこの人もその部屋を立ち出でる必要に迫られてゐるからであつた。
 長い惨めな生活に踏みしだかれ、痛められ通してきた此の婦人は、そして又、深い教養を持つ此の婦人は、憖《なまじ》ひに教養のあればあるだけ、自らを省みて臆病にしか振舞ふことが出来なかつたので、私に救ひを求めるやうな――それでゐて
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