、決して然し自分の要求を露骨には表はすことが出来ずに、寧ろ自らを嘆くやうな、自らを卑しむやうな、遣り切れない心細さを漂はして、私の後を歩いてくるのであつた。しかし私は、全く反省もなく唯軽率に、人のうるささのみを専《ひた》すらに忌み嫌ふ私は、露骨に苦りきつた嫌悪の表情を表はして、寧ろ軽蔑を、――或ひは、「私は貴女と一緒には一秒といへども歩きたくない」といふ意地わるな示威を、忌々しげに表現してみせるのであつた。すると此の婦人は、更に一層の自卑を感じて――しかしその強い怒りを隠しきれずに、弱々しい反抗を、無言のうちに反撥しやうとするのであつた。
そして私は――ひたすらに人のうるささを忌み嫌ふ私は、まして、私にまつわりかかる人の感情のうるささに対しては怒りの絶叫さへ張りあげたい私は、私に加へられた此の婦人の反抗を、更らに激しい立腹をもつて叩き返さずにはゐられなかつた。私の性質として、決してまとも[#「まとも」に傍点]に整然たる理論を扱ひ得ない私は、たち[#「たち」に傍点]の良くない皮肉によつて、それは寧ろ殆んど一種の致命的な侮辱でさへあるところの悪意を籠めて、例へば、「私は貴女の夫ではありませんからネ」とか、「貴女を護衛するナイトはもう一人ある筈だから――」なぞ言ふのであつた。すると彼女は、どんなにも努力を費して、しかし余りに激しすぎた憎悪のために、結局遂に何も言ふことが出来なかつたり、或ひは又、辛うじて、「無意味なことを仰有《おっしゃ》いますな」と呟くのであつた、其の言葉に胸を突かれる私は、突嗟に激しい自卑を覚え――しかし自卑を、自卑として感じる前に忽ち其れを怒りに変へて、わけもなく逆上してしまひ、全く混乱して、
「私はもう直き死ぬのだ……」
「来年の此の季節は、もう決して二度と見られない私なのだ……」
「死んで行く人間の気持が、貴女なぞに分つて堪るものでない……」
そして私は――
斯様な言葉を殆んど噴出する火かのやうに吐き出す時に、怒りと嘆きと――それは全く際涯もない永遠のものを対象にして、私は、もし涙が迸しらなければ、この細長い身体自身を迸しるやうに、まつしぐらに駈け出させたい激情に襲はれずにはゐられなかつた。
私の逆上した混乱に、当然同化し得べくもない此の婦人は、白けた気持に押し流されて、結局私を医院の門前へまで送るやうなことになつた。そして彼女は、茫然として門の内へ這入らうとする私へ、慎しみ深い会釈を与へて、
「さようなら。では御大事に、ね。近いうちに、きつと全快なさいますわ」
「あ、あなたも、あなたも――」
私は全く狼狽して、
「あなたも、幸福になります――」
「ええ、ありがとう……」――
空の模様といふものを、街の色彩といふものを、私は斯様なハヅミによつて、漸く意識に入れがちである。
扨て、私は、この不思議な道連れに就て、その理由を語る前に、更に第四の騒音として、暫く田代君夫妻のことを述べなければならない。
田代笛六、――この勤勉な会社員は、矢張り私を甚しく悩ますところの、一個の算盤であつた。夢にさへ――私は時々、不思議な夢を見るのであるが、例へば――尨大な一個のピラミッドが、しつきりなしに微細な多くの三角形に分解しながら、どうしても其の原型を失はない焦燥に満ちた夢なぞと一緒に、疑ひもなく私は、田代笛六の平凡な顔を、焦燥をもつて夢の中に仰ぐのである。その顔は、私が切に消え去ることを祈るにも拘らず、頑固に消え去らうとはしないのであつた。そしてそれは、平凡な、且《かつ》勤勉な彼自身に何の咎があるわけでなく、それの存在それ自身が甚だうるさい点に於て、全く現実に酷似してゐた。何故ならば、私は、田代笛六の訪問によつて、毎夜の静かさを掻き乱されるからであつた。
田代笛六の生活――
四十五円の収入から、先づ支出として七円の間代を支払ひ、充分に享楽して(彼の言葉によれば――)、扨て、尚かつ月々拾円の貯金を残すところの彼は、稀に見る勤倹精神の持主であつた。何事にも細かな計算を忘れない彼は、例へば喜怒哀楽にも、歩きぶりにも、さては又、顔にも指にも、その計算を滲ませてゐた。彼は夜毎に一日の支出を計算して、それに就ての精密な応答を取り換はすことを忘れなかつた。その時彼は、その妻君の返答の一寸した渋滞にも、そして又、その返答の活気の無さに対しても忽ちに癇癪を起さうとし、貴重な問題を取扱ふことの真摯さを、決して忘れまいとするやうであつた。そして此の種の応答に由つて多分に激情を刺激された彼は、(そのために、往々、激しい喧嘩なぞも起りがちであつたが――)、一つの敷居を跨ぐことによつて突然その気分を好転せしめるために、ツと立つて私の部屋を訪れるのであつた。廊下を歩く数秒の道程に由つて、已に完全な、社交家としての笑顔に移り得る彼は、しか
前へ
次へ
全8ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング