し不幸にして、(実に不幸にして――)、私の気持を、決して計算の中へ入れやうとはしなかつた。そのために、益々不快の念を加へずにゐられぬ私は、「怒り――敷居――笑ひ」といふ甚だ自分勝手な彼の計算を、それ故彼の存在を、最も強い憎しみを以て遇せずにはゐられなかつた。
「お邪魔ではありませんか――」
 私は苦りきつて、忌々しげに横を向いてゐるのであるが、すると彼は、私の如何なる苦々しい面相に向つても、常に一種の全く目的の不鮮明な薄笑ひを浴せることを怠らずに、(それは全く冷笑とも微笑ともつかないものであつたが――)、その余りの手応への無さに、その余りの不快さと無意味さに、絶望へまで、私を、導かずにはおかなかつた。彼は私の苦りきつた真つ暗な顔付を判断して、今日は気分が悪いのかと尋ね、それから近頃の気候のことや、目新らしいニュースの話、更には又、鼻持ならない音楽の話、政治の話……
 ――不愉快な薄笑ひを私の部屋一杯に満した彼は、その平凡な、四角張つた顔の暈《かさ》を幾つとなく部屋の空気へぬき残して、一礼し乍ら、(尚薄笑ひを私に浴せて――)立ち去らうとするのであつた。そして、後向きとなつた途端に、(当然私は想像することが出来るのであるが――)、彼は已にその瞬間に、その不愉快な薄笑ひさへ跡形なく取去つてしまひ――順《したが》つて、その一瞬間以前まで私と交流してゐた雰囲気を何一つ跡に残さぬ冷酷な態度で、「社交――敷居――亭主」――彼は亭主に還元しやうとするのである。私はむらむらして――然し一時《いっとき》も早く心の平静を取り戻したいと思ふので、素早く大の字なりに倒れてしまふが、寝てみると沸々と湧く癇癪は弥増《いやま》しにたかぶるやうで――私は騒がしく跳ね起きて、きこえよがしに、音高く、部屋の掃除をしはぢめるのであつた。
 田代笛六は、怒りだすと、怖いのであつた。彼は妻君を殴つたり壁際へ追ひ詰めて蹴倒したり、するのであつた。そして彼はその時にのみ、凡有《あらゆ》る計算を打ち忘れて猛り立つやうであつた。そして其の壁の裏が、直接私の壁である此の部屋では、彼が妻君を蹴倒す度にパラパラと、細かな、そして時々は大きな、土臭い埃が、舞ひ落ちて来るのであつた。
 すると時々――恐らく更に、私以上の癇癪を起してゐるに相違ないあの不愉快な喇叭は、突然血相変えて隣室へ駈け込んできて、
「うるさい! うるさい! よせ! ああ、苛苛々する。他人の迷惑が分らぬか!」
 しかし非力な此の小男は、笛六の襲撃に備えて、充分逃げ腰に身構えてゐるのであるが――突嗟に攻勢の向きを変えた笛六は、決して一声の呻きさへ立てやうとせずに、凄じい響きと共に此の小男に襲ひかかり――これも亦、息を詰めて一散に逃げはぢめた小男と、二人ながら全く無言に、重なるやうな跫音《あしおと》のみを階段へ残して――私は、間もなく坂道の一方に、彼等の走り去る低い跣足《はだし》の跫音を耳にするのであつた。
 私は、折にふれて思ふのであるが、斯の様に殴り通しの、斯の様に殴られ通しの夫婦といふものは、極く稀にしかあるまいと思はれるのだ。立派な個性を持つた女が、寧ろその亭主よりも聡明にさへ見える女が、一つの悲鳴さへあげやうとせずにただ殴られてゐることは、同情に価ひするよりも、寧ろ不愉快に価ひするものである。私はせめて、彼等の喧嘩が、何等かの甘さを以て終ることを私《ひそ》かに期待するものであつたが、その事は全く無くて、妻君は常に殴られ、笛六は常に殴つて一日を終つた。和解といふことさへなしに、彼等は、存分に殴り、存分に殴られ、荒々しい気持のままに睡りに落ちて、――翌日の朝が訪れるのであつた。その事が、又私には、一つの堪え難い不愉快であつた。真昼時《まひるどき》の、静かな蔭に泌みた部屋に、汚ない服装《みなり》をした此の婦人が白痴のやうに空洞《カラッポ》な顔をして、グッタリ窓に凭れてゐる様を、私は稀に見ることがあつた。私は、斯様な惨めな様を見るにつけて、同情の気持には全くならずに、反抗の美徳といふことを、屈服の悪徳といふことを思ひ付き、この女を憎む気持になるのであつた。
 扨て、第五に――
 私は、さらに忌々しい騒音として、一つの悲鳴を書き洩らしてはならない。私は、その悲鳴を聞くにつけて、苛立ちのあまり激しい身悶えを感ずるにも拘らず、その悲鳴は常に私を対象として、私に救ひを求めるために発せられるがために、否応なく私は、悲鳴に向つて歩いて行かねばならなかつた、然し私は、それは決して悲鳴に応ずるためではなく、その悲鳴を寧ろ厳しく窘《たしな》めるために、唇を顫はせ乍ら、ムッとして歩き進んで行くのであつた。その悲鳴は、ある時は階下に、ある時は隣室に、(そして、恰かも私の平和を掻き乱すためにのみ――)湧き起るのであつた。
 隣室では――田代笛六
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