の妻君は、便所へ立つことも不自由であつた。それと言ふのが、真鍮喇叭に襲はれる虞れがあるためであつた。
私は時々、静かな昼――その懶うさに溶けやうとして、消え入るやうに倒れてゐると、小刻みに階段を登る粘り強い跫音を聴くのであつた。すると私は、続いて起る物音をいち早く予知することが出来たので、苛立たしさにもはや激しい動悸さへ覚え乍ら、硬直した半身を思はず引き起して、其の物音の始まることを待ち構えずにはゐられなかつた。すると果して――呟きのやうな幽かな叫びが、殆んど寧ろ咽び泣くやうにして、私の救ひを求めはぢめるのであつた。その叫びは、私の立腹を虞れるあまり、いたく自ら羞ぢらうあまり、徒らに潰れ掠れて、殆んど幽かな呟きでさへなかつたのに、鼓膜を搏撃されたかにビリビリと感じてしまふ私は、怒りのために涙さへ滲むばかりの思ひ詰めた形相をして、重苦しげに立ち上り、
「ああ、騒がしい。ああ、騒がしい……」
私は隣室の入口に立ちはだかつて、其処の男女を険しく、睨むのであつた。
然し私を予期の上の小男は、決して逃げやうとはせずに、蒼白い薄笑ひを浮べて私の顔をうかがひ乍ら、――私の顔を見ることを虞れて崩れるやうに俯伏し項垂れてゐる女の身体へ、意地悪く縋り付こうとするのであつた。
「…………」
もはや全く言葉の無い私は、ただむやみ[#「むやみ」に傍点]に、うねうねと動き出して止まらうとしない二本の腕を持て扱ひに悩み乍ら、ヂリヂリと詰め寄るよりほかに仕方がなかつた。彼は初めて次第に恐怖を表はして、鈍い動作でふと立ち上り、私を擦り抜けるやうにして戸口の方へ廻つて行つて、蒼白い薄笑ひを次第に硬直させ乍ら、私の腕を払ひのけるためのやうに無意味に其の手を振り動かして、少しづつ後退《あとじさ》るのであつた。彼は熱心に、喚き立つやうな意気込みにして、そのくせ嗄れた潰れた声で、「あれは俺の女だからいいではないか。あの女はもう俺と関係があるのだから――」さういふ事を懸命に言ひ張り乍ら、どうしても振向く暇《いとま》の無いうちに、彼の部屋まで、――階段を下つて、追ひ詰められてしまふのである。「俺は憂鬱なニヒリストだ、俺は全てに絶望した人間なんだ、俺は虚無を抱くやうにして、女を辱しめることが、好きなのだ、俺の気持に、お前が立ち入ることはないではないか――」彼は何かと面倒臭い術語を並べて、この意味の心境を熱狂
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