よせ! ああ、苛苛々する。他人の迷惑が分らぬか!」
 しかし非力な此の小男は、笛六の襲撃に備えて、充分逃げ腰に身構えてゐるのであるが――突嗟に攻勢の向きを変えた笛六は、決して一声の呻きさへ立てやうとせずに、凄じい響きと共に此の小男に襲ひかかり――これも亦、息を詰めて一散に逃げはぢめた小男と、二人ながら全く無言に、重なるやうな跫音《あしおと》のみを階段へ残して――私は、間もなく坂道の一方に、彼等の走り去る低い跣足《はだし》の跫音を耳にするのであつた。
 私は、折にふれて思ふのであるが、斯の様に殴り通しの、斯の様に殴られ通しの夫婦といふものは、極く稀にしかあるまいと思はれるのだ。立派な個性を持つた女が、寧ろその亭主よりも聡明にさへ見える女が、一つの悲鳴さへあげやうとせずにただ殴られてゐることは、同情に価ひするよりも、寧ろ不愉快に価ひするものである。私はせめて、彼等の喧嘩が、何等かの甘さを以て終ることを私《ひそ》かに期待するものであつたが、その事は全く無くて、妻君は常に殴られ、笛六は常に殴つて一日を終つた。和解といふことさへなしに、彼等は、存分に殴り、存分に殴られ、荒々しい気持のままに睡りに落ちて、――翌日の朝が訪れるのであつた。その事が、又私には、一つの堪え難い不愉快であつた。真昼時《まひるどき》の、静かな蔭に泌みた部屋に、汚ない服装《みなり》をした此の婦人が白痴のやうに空洞《カラッポ》な顔をして、グッタリ窓に凭れてゐる様を、私は稀に見ることがあつた。私は、斯様な惨めな様を見るにつけて、同情の気持には全くならずに、反抗の美徳といふことを、屈服の悪徳といふことを思ひ付き、この女を憎む気持になるのであつた。
 扨て、第五に――
 私は、さらに忌々しい騒音として、一つの悲鳴を書き洩らしてはならない。私は、その悲鳴を聞くにつけて、苛立ちのあまり激しい身悶えを感ずるにも拘らず、その悲鳴は常に私を対象として、私に救ひを求めるために発せられるがために、否応なく私は、悲鳴に向つて歩いて行かねばならなかつた、然し私は、それは決して悲鳴に応ずるためではなく、その悲鳴を寧ろ厳しく窘《たしな》めるために、唇を顫はせ乍ら、ムッとして歩き進んで行くのであつた。その悲鳴は、ある時は階下に、ある時は隣室に、(そして、恰かも私の平和を掻き乱すためにのみ――)湧き起るのであつた。
 隣室では――田代笛六
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