て門の内へ這入らうとする私へ、慎しみ深い会釈を与へて、
「さようなら。では御大事に、ね。近いうちに、きつと全快なさいますわ」
「あ、あなたも、あなたも――」
私は全く狼狽して、
「あなたも、幸福になります――」
「ええ、ありがとう……」――
空の模様といふものを、街の色彩といふものを、私は斯様なハヅミによつて、漸く意識に入れがちである。
扨て、私は、この不思議な道連れに就て、その理由を語る前に、更に第四の騒音として、暫く田代君夫妻のことを述べなければならない。
田代笛六、――この勤勉な会社員は、矢張り私を甚しく悩ますところの、一個の算盤であつた。夢にさへ――私は時々、不思議な夢を見るのであるが、例へば――尨大な一個のピラミッドが、しつきりなしに微細な多くの三角形に分解しながら、どうしても其の原型を失はない焦燥に満ちた夢なぞと一緒に、疑ひもなく私は、田代笛六の平凡な顔を、焦燥をもつて夢の中に仰ぐのである。その顔は、私が切に消え去ることを祈るにも拘らず、頑固に消え去らうとはしないのであつた。そしてそれは、平凡な、且《かつ》勤勉な彼自身に何の咎があるわけでなく、それの存在それ自身が甚だうるさい点に於て、全く現実に酷似してゐた。何故ならば、私は、田代笛六の訪問によつて、毎夜の静かさを掻き乱されるからであつた。
田代笛六の生活――
四十五円の収入から、先づ支出として七円の間代を支払ひ、充分に享楽して(彼の言葉によれば――)、扨て、尚かつ月々拾円の貯金を残すところの彼は、稀に見る勤倹精神の持主であつた。何事にも細かな計算を忘れない彼は、例へば喜怒哀楽にも、歩きぶりにも、さては又、顔にも指にも、その計算を滲ませてゐた。彼は夜毎に一日の支出を計算して、それに就ての精密な応答を取り換はすことを忘れなかつた。その時彼は、その妻君の返答の一寸した渋滞にも、そして又、その返答の活気の無さに対しても忽ちに癇癪を起さうとし、貴重な問題を取扱ふことの真摯さを、決して忘れまいとするやうであつた。そして此の種の応答に由つて多分に激情を刺激された彼は、(そのために、往々、激しい喧嘩なぞも起りがちであつたが――)、一つの敷居を跨ぐことによつて突然その気分を好転せしめるために、ツと立つて私の部屋を訪れるのであつた。廊下を歩く数秒の道程に由つて、已に完全な、社交家としての笑顔に移り得る彼は、しか
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