にアイマイではないか。
 しかるに、驚くべし、十一人の証人全部、そろって、真犯人よりも耳が小さい、という点で意見の一致を見ているのである。したがって、この十一人の証人の証言が、いかに他動的に作用されているか、バカバカしいものであるか、明瞭ではありませんか。
 だから、このような事件では、首実検は、証拠とはなりにくいもので、一応似ている、ということを確かめる以外に意味は少いものである。
 しかるに、ジャーナリズムは、首実検で犯人の断定が得られなかった、というだけで、容疑薄れる、と即断する。このジャーナリズムの断定態度というものには、知的性格がまったく欠如しているのである。軽率であり、感情的であり、合理性を欠いている。
 まだしも、警視庁の態度には、必然性があり、合理性があるのである。
 先ず、第一に、H画伯が、二月十日から、北海道へ、現れ、自宅へ帰らない、ということ。
 この事件の犯人が、行方をくらます方法としては、当然こんな方法が用いられる筈で、二月十日ごろというと、人相書などが廻って、似た人間がヤタラとひッぱられた頃ではないかと思われるが、犯人が逃げだすとすれば、先ず、この頃だということが考えられる。警察が、こういう点へ目をつけるのは当然で、こゝには合理性がある。
 第二に、松井氏との名刺交換、及び紛失、及び、名刺について偽証していること。
 名刺をスラレタ、という証言に対しては、それ以上、追求は不可能であるが、名刺に住所を書いてもらった、という偽証がおかしいから、この点で、容疑をかけられたことにも、必然性がある。
 第三に、十万円ほどの金の出所がアイマイであること。この点を追求して明確にすることは最も大切で、この事件の真犯人をあげるとすれば、今日に至っては、こういう点で追求して、真相に迫って行く以外に、さしたる極め手はない筈なのだ。ただ、他の犯罪手段によって金を入手している場合に、取調べが困難フンキュウする怖れがあり、探偵小説のトリックには、こういう場合が大いに利用されているのである。
 しかるに、ジャーナリズムは、金の出所などが、最も大切な極め手であることをさとらず、首実検などを重視し、他の更に重要ないくつかの追求が残されているにも拘らず、首実検が終ると共に、容疑薄れる、とくる。その非知性的なること、論断の軽薄なること、まことに、呆れ果てたる有様である。
 警
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