視庁側が、七十人の刑事を待機させ、証言に応じて直ちに真偽たしかめに走る用意をとゝのえて調べにかゝったことは、当然な態度で、七十人は少なすぎるぐらいである。
H画伯が、写真撮影に故意にシカメッ面をしたということも疑わしいことではあるが、これは刑事の主観的な観察でも有りうるから、この点で容疑を強める理由とはならない。然し、もしも真犯人が疑いをかけられ、写真をうつされる場合には、事実に於て、シカメッ面をしたくなるのが当然で、この点が考慮されるのも、不合理ではない。
H画伯が護送される時の態度がはじめて放送された時、(メッタに放送をきかない私が、偶然にも、この放送をきいたのである)車中に上衣をかぶって、顔をかくしていた、ということは、たしかに異様に思われた。然し、新聞記事を見ると、本人の意志が顔をかくさせているのか、刑事一行の意志が顔をかくさせているのか、判断に苦しむけれども、本人が顔をかくしたとすれば、この心理は奇妙である。然し、多くの人間の中には、色々の性癖の人があるのだから、特殊人の特殊心理を考慮におかなければならず、心理学者が当人の平常の心理を観察して、平常このような心理の人なら、真犯人でなくとも、このような時には顔をかくしたがるかも知れぬ、という点を一応つきとめるべきだろう。一般的に云って、顔をかくすのは、おかしい。水戸の容疑者がヘイチャラな顔をして、アア、帝銀の問題ですか、と笑って云ったというのは、真犯人でなければ、それが当然そうあるべきことなのである。
私は、H画伯が真犯人か、どうか、それを論じているのではないのである。私などに、そんなことを論じうる能力があるべきものではない。
たゞ、私の言いたいことは、H画伯には、ともかく、容疑をかけられて然るべき合理性があった。金の出所とか、松井名刺の行方とか、二月十日から他出したことゝか、それに明確な解答が与えられざる限り、容疑をかけられるのは自然で、そこには、不合理はないのである。
首実検などという、原始、素朴、文化以前の方法に殆ど信頼の大半をかけているジャーナリズムの軽薄さを、指摘したかったのである。
然し、警察も、大いに責めらるべきだ。首実検が、かく人々に信頼さるゝに至ったのも、元はといえば、当局のつくった似顔絵という反文化的方法に、責任があるからだ。
又、当局は、アリバイ、ということを云う。半年以上
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