で命がけで蛤をとつてきたことなど気にもとめず、ふりむきもしなかつた。私はその母を睨みつけ、肩をそびやかして自分の部屋へとぢこもつたが、そのときこの姉がそッと部屋へはいつてきて私を抱きしめて泣きだした。だから私は母の違ふこの姉が誰よりも好きだつたので、この姉の死に至るまで、私ははるかな思慕を絶やしたことがなかつた。この姉と婆やのことは今でも忘れられぬ。私はこの二人にだけ愛されてゐた。他の誰にも愛されてゐなかつた。

          ★

 私は私の気質の多くが環境よりも先天的なもので、その一部分が母の血であることに気付いたが、残る部分が父からのものであるのを感じてゐた。私は父を知らなかつた。そこで私は伝記を読んだ。それは父の中に私を探すためであつた。そして私は多くの不愉快な私の影を見出した。父に就て長所美点と賞揚せられてゐることが私にとつては短所弱点であり、それは私に遺恨の如く痛烈に理解せられるのであつた。
 父は誠実であつた。約をまもり、嘘をつかなかつた。父は人のために財を傾け、自分の利得をはからなかつた、父は人に道をゆづり、自分の栄達をあとまはしにした。それは全て父の行つた事実で
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