九厘は私の好む風景よりも山水の変化の多い風景の方が好きなものだ。そして私は、私がなぜ海や空を眺めてゐると一日ねころんでゐても充ち足りてゐられるか、少年の頃の思ひ出、その原因が分つてきた。私の心の悲しさ、切なさは、あの少年の頃から、今も変りがないのであつた。
私は「家」に怖れと憎しみを感じ、海と空と風の中にふるさとの愛を感じてゐた。それは然し、同時に同じ物の表と裏でもあり、私は憎み怖れる母に最もふるさとゝ愛を感じてをり、海と空と風の中にふるさとの母をよんでゐた。常に切なくよびもとめてゐた。だから怖れる家の中に、あの陰鬱な一かたまりの漂ふ気配の中に、私は又、私のやみがたい宿命の情熱を托しひそめてもゐたのであつた。私も亦、常に家を逃れながら、家の一匹の虫であつた。
私の家から一町ほど離れたところに吉田といふ母の実家の別邸があつた。こゝに私の従兄に当る男が住んでをり、女中頭の子供が白痴であつた。私よりも五ツぐらゐ年上であつたと思ふ。
小学校の四年のとき白痴になつたのであるが、そのときは碁が四級ぐらゐで、白痴にならなければ、いつぱし碁打の専門家になれたかも知れない。白痴になつてからは年毎に
前へ
次へ
全33ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング