剣法は悟道の上にはなく、個性の上にあるのに、悟道的な統一で剣法を論じているからである。
武蔵の剣法というものは、敵の気おくれを利用するばかりでなく、自分自身の気おくれまで利用して、逆に之を武器に用いる剣法である。溺れる者藁もつかむ、というさもしい弱点を逆に武器にまで高めて、之を利用して勝つ剣法なのだ。
之が本当の剣術だと僕は思う。なぜなら、負ければ自分が死ぬからだ。どうしても勝たねばならぬ。妥協の余地がないのである。こういう最後の場では、勝って生きる者に全部のものがあり、正義も自ら勝った方にあるのだから。是が非でも勝つことだ。我々の現下の戦争も亦然り。どうしても勝たねばならぬ。
ところが甚だ気の毒なことには、武蔵の剣法は当時の社会には容れられなかった。形式主義の柳生流が全盛で、武蔵のような勝負第一主義は激しすぎて通用の余地がなかったのだ。
武蔵の剣法も亦、いわば一つの淪落の世界だと僕は思う。世に容れられなかったから淪落の世界だと言うのではないが、然し、世に容れられなかった理由の一つは、たしかにその淪落の性格のためだとは言えるであろう。
一か八かであるが、しかも額面通りではなく
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