中で俳句の話をしながら帰ってきたが、この人は虚子が好きで、子規を「激しすぎるから」嫌いだ、と言っていた。
 けれども『仰臥漫録』を読むと、号泣又号泣したり、始めて穴をみて泣いたりしている子規が同じ日記の中で「五月雨ヲアツメテ早シ最上川(芭蕉)此句俳句ヲ知ラヌ内ヨリ大キナ盛ンナ句ノヤウニ思フタノデ今日迄古今有数ノ句トバカリ信ジテ居タ今日フト此句ヲ思ヒ出シテツクヾヽト考へテ見ルト「アツメテ」トイフ語ハタクミガアツテ甚ダ面白クナイソレカラ見ルト五月雨ヤ大河ヲ前ニ家二軒(蕪村)トイフ句ハ遥カニ進歩シテ居ル」という実のない俳論をやっている。子規の言っていることは単に言葉のニュアンスに関する一片の詩情であって、何事を歌うべきか、如何なる事柄を詩材として提出すべきか、という一番大切な散文精神が念頭にない。号泣又号泣の子規は激しいけれども、俳句としての子規は激しくなく平凡である。『白描』の歌人を菱山修三は激しすぎるから厭だ、と言った。まったくこの歌は激しいのだから、厭だという菱山の言もうなずけるが、僕はこの激しさに惹かれざるを得ぬ。
 僕も一昔前は菊五郎の踊りなど見て、それを楽しんだりしたこともあった
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