、行きつくゴールというものがなく、どこかしらでバッタリ倒れてそれがようやく終りである。永遠に失われざる青春、七十になっても現実の奇蹟を追うてさまようなどとは、毒々しくて厭だとも考える。甘くなさそうでいて、何より甘く、深刻そうでいて何より浅薄でもあるわけだ。
スタンダールは青年の頃メチルドという婦人に会い、一度別れたきり多分再会しなかったと記憶しているが、これをわが永遠の恋人だと言っている。折にふれてメチルドを思いだすことによって常に倖せであったとも言い、この世では許されなくても、神様の前では許されるだろうなどと大袈裟なことを言っている。本気かどうか分らないが、平然としてこう甘いことを言い、ヌケヌケとしたところが面白い。スタンダールと仲がいいような悪いようなメリメは、これは又変った作家で、生涯殆んどたった一人の女だけを書きつづけた。彼の紙の上以外には決して実在しない女である。コロンバでありカルメンであり、そうして、この女は彼の作品の中で次第に生育して、ヴィナス像になって、言いよる男を殺したりしている。
だが、メリメやスタンダールばかりではない。人は誰しも自分一人の然し実在しない恋人を持っているのだ。この人間の精神の悲しむべき非現実性と、現実の家庭生活や恋愛生活との開きを、なんとかして合理化しようとする人があるけれども、これは理論ではどうにもならないことである。どちらか一方をとるより外には仕方がなかろう。
一昔前の話だけれども、その頃僕はある女の人が好きになって、会わない日にはせめて手紙ぐらい貰わないと、夜がねむれなかった。けれども、その女の人には僕のほかに恋人があって僕よりもそっちの方が好きなのだと僕は信じていたので、僕は打ち明けることが出来なかった。そのうちに女の人とも会わなくなって、やがて僕は淪落の新らたな世間に瞬きしていたのであった。僕はもう全然生れ変っていた。僕はとてもスタンダールのようにヌケヌケしたことが言えないので、正直なところ、この女の人はもう僕の心に住んでいない。ところが、会わなくなってから三年目ぐらいに(その間には僕は別の女の人と生活していたこともあった)女の人が突然僕を訪ねてきて、どうしてあの頃好きだと一言言ってくれなかったと詰問した。女の人も内心は最も取乱していたのであろうが、外見は至極冷静で落着いて見えた。僕はすっかり取乱してしまったのである。忘れていた激情がどこからか溢れてきて、僕はこの女の人と結婚する気持になった。それから一ヶ月ぐらいというもの、二人は三日目ぐらいずつに会っていたが、淪落の世界に落ちた僕はもう昔の僕ではなく、突然取乱して激情に溺《おぼ》れたりしても、ほんとはこの人がそんな激しい対象として僕の心に君臨することはもう出来なくなっていたのである。
女の人がこれに気付いて先に諦らめてしまったのは非常に賢明であったと僕は思う。女の人が、もう二度と会わない、会うと苦しいばかりだから、ということを手紙に書いてよこしたとき、僕も全く同感した。そうして、まったく同感だから再び会わないことにしましょう、という返事をだして、実際これで一つの下らないことがハッキリ一段落したという幸福をすら覚えた。今まで偶像だったものをハッキリ殺すことができたという喜びであった。この偶像が亡びても、決して亡びることのない偶像が生れてしまったのだから、仕方がない。さりとて僕にはヌケヌケとスタンダールのメチルド式の言い種《ぐさ》をたのしむほどの度胸はないし、過去などはみんな一片の雲になって、然し、スタンダールの墓碑銘の「生き、書き、愛せり」ということが、改めてハッキリ僕の生活になったのだ。だが、愛せり、は蛇足かも知れぬ。生きることのシノニイムだ。尤も、生きることが愛すことのシノニイムだとも言っていい。
三 宮本武蔵
突然宮本武蔵の剣法が現れてきたりすると驚いて腹を立てる人があるかも知れないけれども、別段に鬼面人を驚かそうとする魂胆があるわけでもなく、まして読者を茶化す思いは寸毫《すんごう》といえども無いのである。僕には、僕の性格と共に身についた発想法というものがあって、どうしてもその特別の発想法によらなければ論旨をつくし難いという定めがある。僕の青春論には、どうしても宮本武蔵が現れなくては納まりがつかないという定めがあるから、そのことは読んで理解していただく以外に方法がない。
大東亜戦争このかた「皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る」という古来の言葉が愛用されて、我々の自信を強めさせてくれている。先日読んだ講釈本によると柳生流の極意だということであるが、真偽の程は請合わない。とにかく何流かの極意の言には相違ないので、僕が之から述べようとする宮本武蔵の試合ぶりは、常に正しくこの極意の通りに外ならなかっ
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