》千万な娘だったのに、二十一の年、原因の分らぬ自殺をとげてしまった。雪国のふるさとの沼へ身を投げて死んでいた。この自殺の知らせが来たときも、関節炎の娘は全然驚きもせず、又、喋りもせず、何を訊こうともしなかった。
 その後、子規の『仰臥漫録』を読んだが、子規も姪と同じような病気であったらしい。場所も同じで、やっぱり腹部であった。子規の頃にはまだギブスがなかったとみえ、毎日|繃帯《ほうたい》を取換えている。繃帯を取換えるとき「号泣又号泣」と書いてある。姪の方もさすがに全身の苦痛を表す時があったが、泣いたことは一度もなかった。
 明治三十五年三月十日の日記に午前十時「此日始メテ腹部ノ穴ヲ見テ驚ク穴トイフハ小キ穴卜思ヒシニガランドナリ心持悪クナリテ泣ク」とある。その日の午後一時には「始終ドコトナク苦シク、泣ク」とも書いてある。子規は大人だから泣かずにいられなかったのだろうが、娘の方は十一もある穴を見たとき、まったく無表情で、もとより泣きはしなかった。食事だけが楽しみで、毎日の日記に食物とその美味、不味ばかり書いている子規。何を食べても無言の娘。この二人の世界では、大人と子供がまったく完全に入れ違いになっているので、僕は『仰臥漫録』を読む手を休めて、なんべん笑ってしまったか知れなかった。(こんなことを書くと、渋川驍君の如く、不謹慎で不愉快極るなどというお叱言《こごと》が又現れそうだが、それでは、いっそ「なつかしい笑いであった」というような惨めな蛇足をつけたしてやろうか。まったく困った話である)
 然し、この話はただこれだけで、なんの結論もないのだ。なんの結論もない話をどうして書いたかというと、僕が大いに気負って青春論(又は淪落論)など書いているのに、まるで僕を冷やかすように、ふと、姪の顔が浮んできた。なるほど、この姪には青春も淪落も馬耳東風で、僕はいささか降参してしまって、ガッカリしているうちに、ふと書いておく気持になった。書かずにいられない気持になったのである。ただ、それだけ。

 僕は次第に詩の世界にはついて行けなくなってきた。僕の生活も文学も散文ばかりになってしまった。ただ事実のまま書くこと、問題はただ事実のみで、文章上の詩というものが、たえられない。
 僕が京都にいたころ、碁会所で知り合った特高の刑事の人で、俳句の好きな人があった。ある晩、四条の駅で一緒になって電車の中で俳句の話をしながら帰ってきたが、この人は虚子が好きで、子規を「激しすぎるから」嫌いだ、と言っていた。
 けれども『仰臥漫録』を読むと、号泣又号泣したり、始めて穴をみて泣いたりしている子規が同じ日記の中で「五月雨ヲアツメテ早シ最上川(芭蕉)此句俳句ヲ知ラヌ内ヨリ大キナ盛ンナ句ノヤウニ思フタノデ今日迄古今有数ノ句トバカリ信ジテ居タ今日フト此句ヲ思ヒ出シテツクヾヽト考へテ見ルト「アツメテ」トイフ語ハタクミガアツテ甚ダ面白クナイソレカラ見ルト五月雨ヤ大河ヲ前ニ家二軒(蕪村)トイフ句ハ遥カニ進歩シテ居ル」という実のない俳論をやっている。子規の言っていることは単に言葉のニュアンスに関する一片の詩情であって、何事を歌うべきか、如何なる事柄を詩材として提出すべきか、という一番大切な散文精神が念頭にない。号泣又号泣の子規は激しいけれども、俳句としての子規は激しくなく平凡である。『白描』の歌人を菱山修三は激しすぎるから厭だ、と言った。まったくこの歌は激しいのだから、厭だという菱山の言もうなずけるが、僕はこの激しさに惹かれざるを得ぬ。
 僕も一昔前は菊五郎の踊りなど見て、それを楽しんだりしたこともあったが、今はもうそういう楽しみが全然なくなってしまった。曲馬団だとか、レビューだとか、酒だとか、ルーレットだとか、そういう現実と奇蹟の合一、肉体のある奇蹟の追求だけが生き甲斐になってしまったのである。
 子規は単なる言葉のニュアンスなどにとらわれて俳句をひねっているけれど、その日常は号泣又号泣、甘やかしようもなく、現実の奇蹟などを夢みる甘さはなかったであろう。然るに僕は、一切の言葉の詩情に心の動かぬ頑固な不機嫌を知った代りに、現実に奇蹟を追うという愚かな甘さを忘れることが出来ない。忘れることが出来ないばかりでなく、生存の信条としているのである。
 大井広介は僕が決して畳の上で死なぬと言った。自動車にひかれて死ぬとか、歩いてるうちに脳溢血でバッタリ倒れるとか、戦争で弾に当るとか、そういう死に方しか有り得ないと言う。どこでどう死んでも同じことだけれども、何か、こう、家庭的なものに見離されたという感じも、決して楽しいものではないのである。家庭的ということの何か不自然に束縛し合う偽りに同化の出来ない僕ではあるが、その偽りに自分を縛って甘んじて安眠したいと時に祈る。
 一生涯めくら滅法に走りつづけて
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