た。
然しながら「肉を切らして骨を切る」という剣術の極意は、必ずしも武士道とは合致しない所がある。具えなき敵に切りかかっては卑怯だとか、一々名乗りをあげて戦争するとか、所謂《いわゆる》武士道的形式に従うと剣術の極意に合わない。「剣術」と「武士道」とは別の物だと言ってしまえば、正しくその通りであって、武士道は必ずしも剣道ではない。主に対する臣というものの機構から生れてきた倫理的な生き方全般に関するもので、一剣術の極意を以て律する事は出来難い所以《ゆえん》であるが、逆に武士道から剣を律しようとして「剣は身を守るものだ」と言ったり、村正の剣は人を切る邪剣で正宗の剣は身を守る正剣だ、などと言うことになると、両者の食い違うところが非常にハッキリしてくるのである。
剣術には「身を守る」という術や方法はないそうだ。敵の切りかかる剣を受止めて勝つという方法はないというのだ。大人と子供ぐらい腕が違えばとにかく、武芸者同志の立合いなら一寸でも先に余計切った方が勝つ。肉を切らして骨を切るというのが、正しく剣術の極意であって、敢て流派には限らぬ普遍的な真理だという話である。
いったい武士というものは常に腰に大小を差しており、寸毫の侮辱にも刀を抜いて争わねばならぬ。又、どういう偶然で人の恨みを買うかも知れず、何時、如何なるとき白刃の下をくぐらねばならぬか、測りがたきものである。そうして、いったん白刃を抜合う以上、相手を倒さねば、必ずこちらが殺されてしまう。死んでしまっては身も蓋もないから、是が非でも勝たねばならぬ道理だ。一か八かということが常に武士の覚悟の根柢になければならぬ筈で、それに対する万全の具えが剣術だと僕は思う。
だが、剣術本来の面目たる「是が非でも相手を倒す」という精神は甚だ殺伐で、之を直ちに処世の信条におかれては安寧をみだす憂いがあるし、平和の時の心構えとしてはふさわしくないところもある。そんなわけで、剣術本来の第一精神があらぬ方へ韜晦《とうかい》された風があり、武芸者達も老年に及んで鋭気が衰えれば家庭的な韜晦もしたくなろうし、剣の用法も次第に形式主義に走って、本来殺伐、あくまで必殺の剣が、何か悟道的な円熟を目的とするかのような変化を見せたのであろうと思われる。蓋《けだ》し剣本来の必殺第一主義ではその荒々しさ激しさに武芸者自身が精神的に抵抗しがたくなって、いい加減で妥協したくなるのが当然だ。
相手をやらなければこちらが命をなくしてしまう。まさに生死の最後の場だから、いつでも死ねるという肚がすわっていれば之に越したことはないが、こんな覚悟というものは口で言い易いけれども達人でなければ出来るものではない。
僕は先日勝海舟の伝記を読んだ。ところが海舟の親父の勝夢酔という先生が、奇々怪々な先生で、不良少年、不良青年、不良老年と生涯不良で一貫した御家人くずれの武芸者であった。尤も夢酔は武芸者などと尤もらしいことを言わず剣術使いと自称しているが、老年に及んで自分の一生をふりかえり、あんまり下らない生涯だから子々孫々のいましめの為に自分の自叙伝を書く気になって『夢酔独言』という珍重すべき一書を遺した。
遊蕩三昧《ゆうとうざんまい》に一生を送った剣術使いだから夢酔先生殆んど文章を知らぬ。どうして文字を覚えたかと云うと、二十一か二のとき、あんまり無頼な生活なので座敷牢へ閉じこめられてしまった。その晩さっそく格子を一本外してしまって、いつでも逃げだせるようになったが、その時ふと考えた。俺も色々と悪いことをして座敷牢へ入れられるようになったのだから、まアしばらく這入っていてみようという気になったのだ。そうして二年程這入っていた。そのとき文字を覚えたのである。
それだけしか習わない文章だから実用以外の文章の飾りは何も知らぬ。文字通り言文一致の自叙伝で、俺のようなバカなことをしちゃ駄目だぜ、と喋るように書いてある。
僕は『勝海舟伝』の中へ引用されている『夢酔独言』を読んだだけで、原本を見たことはないのである。なんとかして見たいと思って、友達の幕末に通じた人には全部手紙で照会したが一人として『夢酔独言』を読んだという人がいなかった。だが『勝海舟伝』に引用されている一部分を読んだだけでも、之はまことに驚くべき文献のひとつである。
この自叙伝の行間に不思議な妖気を放ちながら休みなく流れているものが一つあり、それは実に「いつでも死ねる」という確乎不抜、大胆不敵な魂なのだった。読者のために、今、多少でも引用してお目にかけたいと思ったのだが、あいにく『勝海舟伝』がどこへ紛失したか見当らないので残念であるが、実際一頁も引用すれば直ちに納得していただける不思議な名文なのである。ただ淡々と自分の一生の無頼三昧の生活を書き綴ったものだ。
子供の海舟にも悪党の血
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