青春論
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)今も尚《なお》青春

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)毎朝|閼伽《あか》の
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     一 わが青春

 今が自分の青春だというようなことを僕はまったく自覚した覚えがなくて過してしまった。いつの時が僕の青春であったか。どこにも区切りが見当らぬ。老成せざる者の愚行が青春のしるしだと言うならば、僕は今も尚《なお》青春、恐らく七十になっても青春ではないかと思い、こういう内省というものは決して気持のいいものではない。気負って言えば、文学の精神は永遠に青春であるべきものだ、と力みかえってみたくなるが、文学文学と念仏のように唸《うな》ったところで我が身の愚かさが帳消しになるものでもない。生れて三十七年、のんべんだらりとどこにも区切りが見当らぬとは、ひどく悲しい。生れて七十年、どこにも区切りが見当らぬ、となっては、之《これ》は又助からぬ気持であろう。ひとつ区切りをつけてやろうか。僕は時にこう考える。さて、そこで、然らば「如何にして」ということになるのであるが、ここに至って再び僕は参ってしまう。多分誰でも同じことを考えると思うけれども、僕も又「結婚」というひとつの区切りに就《つい》て先ず考える。僕は結婚ということに決して特別の考えを持ってはおらず、こだわった考え方もしてはおらず、自然に結婚するような事情が起ればいつでも自然に結婚してしまうつもりなのである。けれども、それで僕の一生に区切りが出来るであろうか。多分区切りは出来ないと思うし、かりに区切りが出来たとしても、その区切りによって僕の生活が真実立派になるということは決してないと考える。僕は愚かだけれども、その愚かさは結婚に関係のない事情にもとづくものである。結婚して、子供も大きくなって七十になって、そうして、やっぱり、青春――どこにも一生の区切りがない、これは助からぬ話だと僕は恐れをなしてしまう。
 青春再びかえらず、とはひどく綺麗《きれい》な話だけれども、青春永遠に去らず、とは切ない話である。第一、うんざりしてしまう。こういう疲れ方は他の疲れとは違って癒《いや》し様のない袋小路のどんづまりという感じである。世阿弥が佐渡へ流刑のあいだに創った謡曲に「檜垣《ひがき》」というものがある。細いことは忘れてしまったけれども荒筋は次の
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