ような話である。なんでも檜垣寺というお寺があって(謡曲をよく御存じの方は飛ばして読んで下さい。どんなデタラメを言うかも知れませんよ)このお寺へ毎朝|閼伽《あか》の水をささげにくる老婆がある。いつ来る時も一人であるが、この老婆の持参の水が柔らかさ世の常のものではない。そこで寺の住持があなたは何処の何人であるかと尋ねてみると、老婆は一首の和歌を誦してこの歌がお分りであろうか、と云う。生憎《あいにく》この和歌を僕はもう忘れてしまったが「水はぐむ」とか何とかいう枕言葉に始まっていて、住持にはこの枕言葉の意味が分らないのである。この和歌にも相当重要な意味があった筈であるが、然し、物語の中心そのものではないのだから勘弁していただきたい。そこで住持が不思議に思って、この枕言葉は聞きなれないものであるが、いったいどういう意味があるのですかと尋ねた。すると老婆が答えて言うには、その意味が知りたいと仰有《おっしゃ》るならば何とか河(これも忘れた)のほとりまで御足労願いたい。自分はそこに住んでいるから、そのときお話致しましょう、と帰ってしまった。翌日(ではないかも知れぬ。もともと昔の物語は明日も十年後もありゃしない)住持は何とか河のほとりへ老婆を訪ねて行ってみた。と、なるほど、一軒の荒れ果てた庵があるが、住む人の姿はなく、又、人の住むところとも思われぬ廃屋である。と、姿のない虚空に老婆の恐ろしい声がして、いざ、私の昔を語りましょう、と言い、自分は、昔、都に宮仕えをして楽しい青春を送ったもので、昨日の和歌は自分の作、新古今だか何かに載っているものである。自分は年老ゆると共に、若かった頃の美貌が醜く変って行くのに堪えられぬ苦しみを持つようになった。そうして、そのことを気にして悩みふけって死んでしまったが、そのために往生を遂げることが出来ず、いまだに妄執を地上にとどめて迷っている。和尚様においでを願ったのも、有難い回向《えこう》をいただいて成仏したいからにほかならぬ、と物語る。そこで和尚は、いかにも回向してあげようが、先ず姿を現しなさい、と命令し、老婆はためらっていたが、然らば醜い姿であさましいがお目にかけましょうと言って妄執の鬼女の姿を現す。そこで和尚は回向を始めるのであるが、回向のうちに、老婆はありし日の青春の夢を追い、ありし日の姿を追うて恍惚《こうこつ》と踊り狂い、成仏する、という筋なの
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