ていて、この観点から言う限りは、男に比べて遥かに「生活している」と言わなければなるまいと思う。だいたい先刻の「檜垣」の話にしても、容貌の衰えを悩むあまり幽霊になったなどという、光源氏を主人公にしても男では話にならない。光源氏を幽霊にすることは不可能でもないけれども、すくなくとも男の場合は老齢と結びつけるわけには参らぬ。ここに一人の爺さんがあって、容貌の衰えたのを悲嘆のあまり、魂魄《こんぱく》がこの世にとどまって成仏が出来なくなってしまった、というのでは読者に与える効果がよほど違ってくる。むしろ喜劇の畑であろう。女は非常にせまいけれども、強烈な生活をしているのである。
 三好達治が僕を評して、坂口は堂々たる建築だけれども、中へ這入《はい》ってみると畳が敷かれていない感じだ、と言ったそうだ。近頃の名評だそうで、僕も笑ってしまったけれども、まったくお寺の本堂のような大きなガランドウに一枚のウスベリも見当らない。大切な一時間一時間をただ何となく迎え入れて送りだしている。実の乏しい毎日であり、一生である。土足のままヌッと這入りこまれて、そのままズッと出て行かれても文句の言いようもない。どこにも区切りがないのだ。ここにて下駄をぬぐべしと云うような制札がまったくどこにもないのである。
 七十になっても、なお青春であるかも知れぬ。そのくせ老衰を嘆いて幽霊になるほどの実のある生活もしたことがない。そのような僕にとっては、青春というものが決して美しいものでもなく、又、特別なものでもない。然らば、青春とは何ぞや? 青春とは、ただ僕を生かす力、諸々の愚かな然し僕の生命の燃焼を常に多少ずつ支えてくれているもの、僕の生命を支えてくれるあらゆる事どもが全て僕の青春の対象であり、いわば僕の青春なのだ。
 愚かと云えば常に愚かであり又愚かであった僕である故、僕の生き方にただ一つでも人並の信条があったとすれば、それは「後悔すべからず」ということであった。立派なことだから後悔しないと云うのではない。愚かだけれども、後悔してみても、所詮立直ることの出来ない自分だから後悔すべからず、という、いわば祈りに似た愚か者の情熱にすぎない。牧野信一が魚籃坂《ぎょらんざか》上にいたころ、書斎に一枚の短冊が貼りつけてあって「我事に於て後悔せず」と書いてあった。菊池寛氏の筆であった。その後、きくところによれば、これは元来宮
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