思われる。宇野さんの小説の何か手紙だったかの中に「女がひとりで眠るということの佗しさが、お分りでしょうか」という意味の一行があった筈だが、大切な一時間一時間を抱きしめている女の人が、ひとりということにどのような痛烈な呪いをいだいているか、とにかく僕にも見当はつく。
 このような女の人に比べると、僕の毎日の生活などはまるで中味がカラッポだと言っていいほど一時間一時間が実感に乏しく、且、だらしがない。てんでいのちが籠《こも》っておらぬ。一本の髪の毛は愚かなこと、一本の指一本の腕がなくなっても、その不便に就ての実感や、外見を怖れる見栄に就ての実感などはあるにしても、失われた「小さないのち」というものに何の感覚も持たぬであろう。
 だから女の人にとっては、失われた時間というものも、生理に根ざした深さを持っているかに思われ、その絢爛《けんらん》たる開花の時と凋落《ちょうらく》との怖るべき距りに就て、すでにそれを中心にした特異な思考を本能的に所有していると考えられる。事実、同じ老年でも、女の人の老年は男に比べてより多く救われ難いものに見える。思考というものが肉体に即している女の人は、その大事の肉体が凋落しては万事休すに違いない。女の青春は美しい。その開花は目覚しい。女の一生がすべて秘密となってその中に閉じこめられている。だから、この点だけから言うと、女の人は人間よりも、もっと動物的なものだという風に言えないこともなさそうだ。実際、女の人は、人生のジャングルや、ジャングルの中の迷路や敵や湧き出る泉や、そういうものに男の想像を絶した美しいイメージを与える手腕を持っている。もし理智というものを取去って、女をその本来の肉体に即した思考だけに限定するならば、女の世界には、ただ亡国だけしか有り得ない。女は貞操を失うとき、その祖国も失ってしまう。かくの如く、その肉体は絶対で、その青春も亦《また》、絶対なのである。
 どうも、然し、女一般だの男一般というような話になると、忽《たちま》ち僕の舌は廻らなくなってトンチンカンになってしまうから、このへんで切上げて、僕はやっぱり僕流に自分一人のことだけ喋ることにしよう。ただ、さっきの話のちょっとした結論だけ書加えておくと、女の人は自分自身に関する限り、生活の一時間一時間を男に比べて遥に自覚的に生きている。非常にハッキリと自分自身を心棒にした考え方を持っ
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