するというのが武蔵の考えで、だから武蔵は型にとらわれた柳生流を非難していた。柳生流には大小六十二種の太刀数があって、変に応じたあらゆる太刀をあらかじめ学ばせようというのだが、武蔵は之を否定して、変化は無限だからいくら型を覚えても駄目であらゆる変化に応じ得る根幹だけが大事だと言って、その形式主義を非難したのである。
これとほぼ同じ見解の相違が、佐々木小次郎と武蔵の間にも見ることが出来る。
小次郎は元来富田勢源の高弟で、勢源門下に及ぶ者がなくなり、勢源の弟の次郎左衛門にも勝ったので、大いに自信を得て「巌流《がんりゅう》」という一派をひらいた男である。元々富田流は剣の速捷《そくしょう》を尊ぶ流派だから、小次郎も亦速技を愛する剣法だった。彼は橋の下をくぐる燕《つばめ》を斬って速技を会得したというが、小次郎の見解によれば、要するに燕を斬るには初太刀をかわして燕が身をひるがえす時、その身をひるがえす速力よりも早い速力で斬ればいいという相対的な速力に関する考えだった。
ところが武蔵によれば、相対的な速力それ自身には限度がある。つまり変化に応じてあらかじめ型をつくることと同じで、燕の速力に応じる速力を用意しても燕以上の速力のものには用をなさぬ。だから、一番大切なのは敵の速力に対するこちらの観察力で、如何なる速力にも応じ得る眼をつくることが肝心だという考えだった。
小次郎は燕から会得した速剣を「虎切剣」と名付けて諸国を試合して廻り一度も負けたことがなく、小倉の細川家に迎えられて、剣名大いに高かった。その頃京都にいた武蔵は小次郎の隆々たる剣名を耳にして、その速剣と試合ってみたいと思ったのだ。速剣それ自身は剣法の本義でないという彼の見解から、当然のことであった。
彼は小倉へ下って細川家へ試合を願い出で、許されて、船島で試合を行うことになった。武蔵は家老の長岡佐渡の家に泊ることになり、翌朝舟で船島へ送られる筈であったが、彼自身の考えがあって、ひそかに行方をくらまし、下関の廻船問屋小林太郎左衛門の家へ泊った。
翌日になって、もう小次郎が船島へついたという知らせが来たとき、ようやく彼は寝床から起きた。それから食事をすませ、主人を呼んで櫓をもらい受けて、大工道具を借り受け、木刀を作りはじめた。何べんも渡航を催促する飛脚が来たが、彼は耳をかさず丹念に木刀をきざんだ。四尺一寸八分の木刀を
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