があるのである。
僕はかような考え方を決して頭から否定する気持はない。むしろ甚だユニックな国民的性格をもった考え方だと思うのである。
実際、思ってもみなさい。このような民族的な肉体をもった考えというものは真理だとか真理でないと言ったところで始まらぬ。実際、僕の四囲の人々は、みんなそう考え、そう生活しているのである。或いは、そう生活しつつ、そう考えているのである。彼等は実際そう考えているし、考えている通りの現実が生れてきているのだ。これでは、もう、喧嘩にならぬ。僕ですら、もし家庭というものに安眠しうる自分を予想することが出来るなら、どんなに幸福であろうか。芥川龍之介が「河童」か何かの中に、隣りの奥さんのカツレツが清潔に見える、と言っているのは、僕も甚だ同感なのである。
然し、人性の孤独ということに就て考えるとき、女房のカツレツがどんなに清潔でも、魂の孤独は癒されぬ。世に孤独ほど憎むべき悪魔はないけれども、かくの如く絶対にして、かくの如く厳たる存在も亦すくない。僕は全身全霊をかけて孤独を呪う。全身全霊をかけるが故に、又、孤独ほど僕を救い、僕を慰めてくれるものもないのである。この孤独は、あに独身者のみならんや。魂のあるところ、常に共にあるものは、ただ、孤独のみ。
魂の孤独を知れる者は幸福なるかな。そんなことがバイブルにでも書いてあったかな。書いてあったかも知れぬ。けれども、魂の孤独などは知らない方が幸福だと僕は思う。女房のカツレツを満足して食べ、安眠して、死んでしまう方が倖《しあわ》せだ。僕はこの夏新潟へ帰り、たくさんの愛すべき姪《めい》達と友達になって、僕の小説を読ましてくれとせがまれた時には、ほんとに困った。すくなくとも、僕は人の役に多少でも立ちたいために、小説を書いている。けれども、それは、心に病ある人の催眠薬としてだけだ。心に病なき人にとっては、ただ毒薬であるにすぎない。僕は僕の姪たちが、僕の処方の催眠薬をかりなくとも満足に安眠できるような、平凡な、小さな幸福を希っているのだ。
数年前、二十歳で死んだ姪があった。この娘は八ツの頃から結核性関節炎で、冬は割合いいのだが夏が悪いので、暖くなると東京へ来て、僕の家へ病臥し、一ヶ月に一度ぐらいずつギブスを取換えに病院へ行く。ギブスを取換える頃になると、膿《うみ》の臭気が家中に漂って、やりきれなかったものである。
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