までそう思いこんでしまうようなものでさア。分りましたか」
しかし田代さんは私のことよりも自分のことの方が問題なのだ。ノブ子さんは田代さんと同じ部屋へ寝るのが厭だといったのだが、田代さんはさすがにいくらか顔色を変えて、ノブちゃん、そりゃアいけない。そこまで私に恥をかかしちゃいけないよ。旅館へあなた男女二人できて別の部屋へ泊るなんて、そりゃアあなた体裁が悪い、これぐらい羞かしい思いはないよ。同じ部屋へねたって、それは私は口説きますよ、口説きますけど、暴力を揮いやしまいし、そういう信用は持ってくれなきゃ、そこまで私に恥をかかしちゃ、まるで、ノブちゃん、それじゃア私が人格ゼロみたいのものじゃないか。
男たちが温泉につかっているとき、ノブ子さんは私に、
「どうしたらいいかしら。田代さんを怒らしてしまったけど、つらいのよ。寝床の中で口説かれるなんて、第一私男の人に寝顔なんか見せたことないでしょう。寝床の中で口説かれるなんて、そんなこと、私田代さんに惨めな思いさせたり惨めな田代さん見たくないから、許しちゃうかも知れないのよ。そんな許し方したら、あとあと侘しくて、なさけないじゃないの。そうでしょう。だから、いっそ、私の方から許してしまったら。なんだか、ヤケよ。サチ子さん、どうしたらいいの。教えてちょうだい」
「私には分らないわ。あんまりたよりにならなくて、ノブ子さん、怒らないでね。私はほんとに自分のことも何一つ分らないのよ。いつも成行にまかせるだけ。でも、ほんとに、ノブ子さんの場合は、どうしたらいいのかしら」
「ヤケじゃアいけないでしょう」
「それは、そうね」
その晩の食卓で私は田代さんにいった。
「田代さんほどの人間通でもノブ子さんの気持がお分りにならないのね。ノブ子さんは身寄りがないから、処女が身寄りのようなものなのでしょう。その身寄りまでなくしてしまうとそれからはもう闇の女にでもなるほかに当のないような暗い思いがあるものよ。私のような浮気っぽいモウロウたる女でも、そんな気持がいくらかあるほどですもの、女は男のように生活能力がないから、女にとっては貞操は身寄りみたいなものなんでしょう、なんとなく、暗いものなのよ。ですから、ノブ子さんのただ一つの身寄りを貰うためでしたら、身寄りがなくとも暮せるような生活の基礎が必要でしょう。前途の不安がないだけの生活の保証をつけてあげなくては。口約束じゃアダメ。はっきり現物で示して下さらなくては」
「それは無理ムタイという奴だな奥さん。それはあなたは、あなたの彼氏は天下のお金持だから、だけど、あなた、天下無数の男という男の多くは全然お金持ではないのだからな。処女というものを芸者の水揚げの取引みたいに、それは、あなた、むしろ処女の侮辱だな。むろん、あなた、私はノブちゃんを大事にしますよ。今、現に、私がノブちゃんを遇する如くに、です。それ以外に、あなた、水揚料はひでえな」
「水揚料になるのかしら。それだったら、私もタダだったわ」
「それ御覧なさい。それはあなた、処女は本来タダですよ」
「私の母が私の処女を売り物にするつもりだったから、私反抗しちゃったのよ。でも、今にして思えば、もし女に身寄りがなかったら、処女が資本かも知れなくってよ。だって芸者は水揚げしてそれから芸者になるのでしょう。私の場合は、処女というヨリドコロを失うと闇の女になりかねない不安やもろさや暗さに就ていうのです。ですから処女をまもるのは生活の地盤をまもるのよ」
「かつて見ざる鋭鋒だな。奥さんが処女について弁護に及ぶとは、女は共同戦線をはるてえと平然として自己を裏切るからかなわねえなア。共同の目的のためというのはストライキの原則だけど、己を虚しうし、己を裏切るてえのは、そんなストライキはねえや。それはあなた、処女が身寄りのようなものだてえノブちゃんの心細さは分りますとも。けれどもそんな心細さはつまりセンチメンタリズムてえもので、根は有害無益なる妖怪じみた感情なんだなア。処女ひとつに女の純潔をかけるから、処女を失うてえと全ての純潔を失ってしまう。だから闇の女になるですよ。けれどもあなた純潔なるものはそんなチャチなものじゃない。魂に属するものです。私は思うに日本の女房てえものは処女の純潔なる誤れる思想によって生みなされた妖怪的性格なんだなア。もう純潔がないのだから、これ実に妖怪にして悪鬼です。金銭の奴隷にして子育ての虫なんだな。からだなんざアどうだって、亭主の五人十人取りかえたって、純潔てえものを魂に持ってなきゃア、ダメですよ。そこへいくとサチ子夫人の如きは天性てんでからだなんか問題にしていない人なんだから、そしてあなた愛情が感謝で物質に換算できるてえのだから、自ら称して愛情による職業婦人だというのだから、これは天晴れ、胸のすくような淑女なんだ
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