おり、その世界を全面的に認めているから、たとえば三木昇が好色で肉情以外に何もなくとも、そのことで軽蔑はしなかった。できないのだ。文化というのだか、教養というのだか、なんだか私にもよく分らぬけれども、精神的に何かが低いから厭になっただけであった。
母の旦那は大きな商店の主人であったが、山の別荘へ疎開した。その隣村の農家だかに部屋があるからという知らせがきて、母は疎開したがったが、私が徴用で動けないので、大いに煩悶していたが、空襲がはじまり、神田がやられ、有楽町がやられ、下谷がやられ、近いところにポツポツ被害があったりして、母も観念して単身荷物と共に逃げだした。母もまた私同様病気と死ぬことが何よりの嫌いで、雪夫は医者に育てるのだと小さい時からきめていたのは、少しでも長生きしたいという計算からであった。
母は一週間に一度ずつ私を見廻りに降りてきた。けれども実際は若い男と密会のためで、これだけは私に隠しておきたかったのだけれども、交通も通信も不自由で、打合せがグレハマになるから、仕上げは御見事というわけにも行かず、男を家へひきいれて酒をのみ泊めてやることもあった。
私は母だから特別の生き方を要求するような気持は微塵もなく、私が自由でありたいように、母も私に気兼ねなどしない方がサッパリして気持がいいと思っていたが、私はしかし母が酔っ払うとダラシなくなるのと、男が安ッポすぎたのでなさけなかった。
三月十日の陸軍記念日には大空襲があるから三月九日には山へ帰るのだと母はいっていた。そのくせ男との連絡がグレハマにいったので、九日の夜にはいってようやく男に会えて家へつれてきて酒をのんでいた。この日のために山から持ってきた鶏だの肉だの、薄暗がりで料理する女中につきあって私も起きており、警戒警報のでた時は母の酒宴はまだ終らず、私のきいているラジオの前へやってきて、ダイヤルの光をたよりにまた酒もりをはじめた。三機ほど房総の方からはいってきて投弾せず引返し、またしばらくして三機ほど同じコースからはいってきて、これも投弾せず引返してしまった。もう引返してしまったから解除になるだろうなどといっていると、外の見張所で、敵機投弾、火事だ火事だ、という。すると私たちの頭上をガラガラひどい音がした。二階の窓へ物見に行った女中が大変、もう方々一面に火の手があがっているという。わけが分らずボンヤリしているうちに空襲警報がなったのだ。
モンペもつけず酔っ払っていた母の身仕度に呆れるぐらいの時間がかかったけれども、夜襲の被害を見くびることしか知らなかった私は窓をあけて火の手を見るだけの興味も起らず暗闇の部屋にねころんでおり、荷物をまとめて防空壕へ投げこんで戻るたび、あっちへも落ちた、こっちにも火の手があがったというけたたましい女中の声をきき流していた。
そのとき母のさきに身仕度をととのえて私の部屋へきていた男が酒くさい顔を押しつけてきて、私が顔をそむけると、胸の上へのしかかってモンペの紐をときはじめたので、私はすりぬけて立ちあがった。母がけたたましく男の名をよんでいた。私の名も、女中の名もよんだ。私は黙って外へでた。
グルリと空を見廻したあの時の私の気持というものは、壮観、爽快、感歎、みんな違う。あんなことをされた時には私の頭は綿のつまったマリのように考えごとを喪失するから、私は空襲のことも忘れて、ノソノソ外へでてしまったら、目の前に真ッ赤な幕がある。火の空を走る矢がある。押しかたまって揉み狂い、矢の早さで横に走る火、私は吸いとられてポカンとした。何を考えることもできなかった。それから首を廻したらどっちを向いても真ッ赤な幕だもの、どっちへ逃げたら助かるのだか、私はしかしあのとき、もしこの火の海から無事息災に脱出できれば、新鮮な世界がひらかれ、あるいはそれに近づくことができるような野獣のような期待に亢奮した。
翌日あまりにも予期を絶した戦争の破壊のあとを眺めたとき、私は住む家も身寄の人も失っていたが、私はしかしむしろ希望にもえていた。私は戦争や破壊を愛しはしない。私は私にせまる恐怖は嫌いだ。私はしかし古い何かが亡びて行く、新らしい何かが近づいてくる、私はそれが何物であるか明確に知ることはできなかったが、私にとっては過去よりも不幸ではない何かが近づいてくるのを感じつづけていたのだ。
全くサンタンたる景色であった。焼け残った国民学校は階上階下階段まで避難民がごろごろして、誰の布団もかまわず平気で持ってきてごろごろ寝ている男達、人の洋服や人のドテラを着ている者、それは私のだといわれて、じゃア借りとくよですんでしまう。顔にヤケドして顔一面に軟膏ぬって石膏の面みたいな首だけだして寝ている十七八の娘の布団を、三枚は多すぎらといって一枚はいで持って行って自分の連《つれ》の
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