女にかけてやる男もある。何かねえのか食べ物は、と人のトランクをガサガサ掻きまわすのを持主がポカンと見ているていたらくで、あっちに百人死んでる、あの公園に五千人死んでるよ、あそこじゃ三万も死んでら、命がありゃ儲け物なんだ、元気だせ、幽霊みたいな蒼白な顔で一家の者を励ます者、屍体の底の泥の中に顔をうずめて助かって這いだしてきたという男はその時は慾がなかったけれどもこうして避難所へ落着いてみると無一物が心細くて、かきわけた屍体に時計をつけた腕があったが、せめてあの時計を頂戴してくればよかったといっている。この男はまだ顔の泥をよく落しておらないけれども、大概似たような汚い顔の人たちばかり、顔を洗うことなんか誰も考えていない。
 私と女中のオソヨさんは水に浸した布団をかぶって逃げだしたが、途中に火がつき、布団をすて、コートに火がついてコートをすて、羽織も同じく、結局二人ながら袷《あわせ》一枚、無一物であったが、オソヨさんの敏腕で布団と毛布をかりてくるまり、これもオソヨさんの活躍で乾パンを三人前、といったって三枚だ、一日にたったそれだけ、あしたはお米を何とかしてあげる、と係りの者がいうので空腹だけれども我慢して、そして私はオソヨさんが、もう東京はイヤだ、富山の田舎へ帰る、でも無一物で、どうして帰れることやら、などとさまざまにこぼすのをききながら、私はしかし、ほんとにそうね、などと返事をしても、実際は無一物など気にしていなかった。
 何も持たない避難民同士のなかから布団と毛布がころがりこむし、三枚の乾パンでは腹がペコペコだけれども、あしたはお米がくるというから、私は空腹よりも、こうして坐っていると人が勝手にいろいろ何とかしてくれるのが面白くて仕方がない。私はちょっとした空腹などより、人間同士の生活の自然のカラクリの妙がたのしい。窮すれば通ず、困った時には自然に何とかなるものだ、というのが、私がこれまでに得た人生の原理で、私に母をたよる気持のないのも、私の心の底にこんな瘤みたいな考えがあるせいだろう。私は我まま一ぱいに育てられたけれども、たとえば母も女中も用たしにでて私一人で留守番をしてお料理はお前が好きなようにこしらえておあがりといわれていても、私は冷蔵庫のお肉やお魚には手をつけずカンヅメをさがす、カンヅメがなければ御飯にカツブシだけ、その出来あがった御飯がなければ、あり合せのリンゴやカステラの切はしだけでも我慢していられる。ペコペコの空腹でも私はねころんで本を読んでいるのだ。だから我まま一ぱいなどといっても空腹には馴れており、それも我ままのせいかも知れないけれども、我ままもまた相当に困苦欠乏に堪える精神を養成するもので、満堂数千の難民のなかで私が一番不平をいわないようだった。
 私自身がそんな気持だから、人々の不幸が私にはそれはいうまでもなく不幸は不幸に見えるけれども、また、別のものに見えた。私には、たしかに夜明けに見えたのだ。
 私はハッキリ母と別な世界に、私だけで坐っている自分を感じつづけていた。私がふと気にかかるのはもう母に会いたくないということだけで、私はここにこうしている、母もどこかにこんな風にしているだろう、そしてこのまま永遠にバラバラでありたいということだけであった。
 私にとっては私の無一物も私の新生のふりだしの姿であるにすぎず、そして人々の無一物は私のふりだしにつきあってくれる味方のようなたのもしさにしか思われず、子供は泣き叫び空腹を訴え、大人たちは寒気と不安に蒼白となり苛々《いらいら》し、病人たちが呻いていても、そしてあらゆる人々が泥にまみれていても、私は不潔さを厭いもしなければ、不安も恐怖もなく、むしろ、ただ、なつかしかった。私のような娘(私のような娘が何人いるのか私は知らないけれども)ともかく私のような娘にとっては、日本だの祖国だの民族だのという考えは大きすぎて、そんな言葉は空々しいばかりで始末がつかない。新聞やラジオは祖国の危機を叫び、巷の流言は日本の滅亡を囁いていたが、私は私の生存を信じることができたので、そして私には困った時には自然にどうにかなるものだという心の瘤があるものだから、私は日本なんかどうなっても構わないのだと思っていた。
 私には国はないのだ。いつも、ただ現実だけがあった。眼前の大破壊も、私にとっては国の運命ではなくて、私の現実であった。私は現実はただ受け入れるだけだ。呪ったり憎んだりせず、呪うべきもの憎むべきものには近寄らなければよいという立前で、けれども、たった一つ、近寄らなければよい主義であしらうわけには行かないものが母であり、家というものであった。私が意志して生れたわけではないのだから、私は父母を選ぶことができなかったのだから、しかし、人生というものは概してそんなふうに行きあたりバッタリな
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