気味で、日々苦しく、まったく外出したことがない。だから、前後不覚のうちに日蝕パレスへ遠征した筈は有り得ないのである。
去年の暮、僕の旅行中、Tという人の使いというのが来て、ふだん来る雑誌記者と人相態度も異り、十五分もねばって、部屋の中をのぞいたり、うろつき廻って、女中を困らせた人物があったそうだ。まさしく手紙の主のTなる姓であるから、なるほど、左様な次第であったか、と、私も合点がいった。
戦争前には、僕のニセモノはずいぶん横行した。ニセモノの横行する条件がそろっていたのである。つまり、坂口安吾という顔は誰も知らない。文壇の内部では、名前だけは通用する。広い東京には、文学女給、文学芸者、文学ダンサーなど、頓狂なのが居るもので、そういうところでは僕の名前が通用して、まずシッポのでる心配がないから、ニセモノが横行し、中には文学青年のグループを手ダマにとって、羽振をきかせて威張っていたのもいた。俳句をつくるアンゴ氏もおり、色紙を書き与え、ホンモノの企て及ばざる芸達者な威風を発揮し、先日その色紙を見たが、惚れ/\する筆蹟であった。
十年ほど前、京都に二年ちかく放浪していた留守中、銀座に羽振
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