うであった。
 僕が外来患者の診察を見学したとき、十人くらいは分裂病であったが、どうです、驚いたでしょう、という千谷さんに答える僕の言葉は、いゝえ、ということだけであった。
 一人の患者をのぞいて、あとは極めて有りふれた、僕の見馴れた人達であった。僕らのような文士稼業をしていると、殆ど毎日のように見知らぬ青年が訪ねてくる。それらの何分の一かは、明らかに現在分裂病と云われている者であり、東大神経科の外来室に居る患者と異るところがなかったのである。
 対坐したまま三十分も喋らずにいて、どうしても喋る言葉が浮かびません、と悄然と帰って行く青年。履歴書や身分証明書のような色々の物を取り揃えてやって来て就職を頼み、紹介状を書いてやり、宛先の雑誌社に電話をかけておいてやるのに、姿を見せず、一ヶ月ほどすぎて、又、悄然と現れて、どうしても行けなかった心境をのべて、重ねて同じ紹介を依頼し、そういうことが綿々と重複する青年。原稿を読んでくれと送ってよこし、その翌日には恥しいから焼却してくれと電報をよこし、又、その翌日には、あれはたしかに傑作だから読んでくれと電報をよこし、その翌日は、やっぱり焼いてくれと電報をよこし、こういうことが十日間もつゞく青年。手の指を五本斬るから一本について一万円ずつ金をくれ、などゝ、こういう文学青年の訪れは、大方、どの作家も経験があるに相違ない。

 僕が東大神経科の外来で見た十人ほどの患者は、僕の応接間へ現れても不思議ではない人たちが主であった。文士の応接間と精神病院の外来室とは似たようなところだと僕は思った。いっそ応接間の隣へ電気治療室でも造ったら、僕のためにも便利だろう、と苦笑したほどであった。
 そして、僕は思った。僕の応接間でもそうであるが、精神病院の外来室に於ても、患者たちが悩んでいる真実のものは、潜在意識によってではなく、むしろ、激しい祈念と反対の現実のチグハグにある、と見るのが正しいのだ、ということを。
 彼らは、自分の悩んでいるものを知っているのである。たゞ人に言わないだけだ。そして、人に縋ったところで、どうにもならないということを悟り、そういうところから厭人的になり、やがて、神経が消耗してしまう。僕の応接間と、精神病院の外来室との違うところは、外来室に於ては、彼らは自らの意志ではなく、他の人々にすゝめられて来ており、従って、医者に対しては外部的なことだけしか語らないが、僕の応接間では、彼らは自らの意志によって来ており、主として内部的なことを語ろうと努力していることの相違である。
 だから彼らは徳義上の内省については普通人よりも考えあぐね、発作の時期でなければ、むしろ行い正しく、慎しんでいるのが普通であり、精神病院の看護婦などが、患者に親切で、その仕事に愛着をもつようになるのも、患者らの本性の正直さや慎ましさが自然にそうさせるのではないかと思った。
 一般に、犯罪者と精神鑑定とは離るべからざるように見られているが、テンカンの場合とか、異状発作の場合とかはとにかくとして、たとえば小平の場合などは、これを精神異状と云うのは奇妙であり、明らかに、「犯罪者」という別の定義があるべきではないかと思った。一般に、精神病の患者は、自らに科するに酷であり、むしろ過度に抑圧的であって、小平のような平凡さ、動物的な当然さはないものである。精神病者が最も多く闘っているものは、むしろ自らの動物性に対してであり、僕が小平を精神異状ではなく、むしろ平凡であり、単に犯罪者であると定義する所以はこゝにあるのである。精神病院の患者は自らに科するに酷であり、むしろ一般人よりも犯罪に縁が遠い、と僕は思った。
 精神病というものは、家庭とか、就職先とか、それらのマサツがなければ生じないもので、又、自らに課する戒律がなければ生じないものである。だから、責任ある地位につき、自らに課するに厳なる社会人は概ね精神病者と断定してよろしく、小平のようなのが、むしろ普通人の形態に近似しているのである。
 僕が見た外来患者のうちで、僕の応接間で見かけることのない唯一のタイプの患者は、四十七の女であった。服装から判断して、農家の主婦であったかも知れない。彼女は膝と足を紐と手拭《てぬぐい》様のもので二ヶ所縛られ、その夫と思われる者、又、も一人の肉親の一人と思われる青年の二人に抱かれて外来室へ運びこまれてきた。
 彼女は幻視を見ているのである。右に天皇が見え、左に観音が見え、彼女はたゞ拝みつゞけているだけで、医者の問いに返答せず、返答するのは夫と思われる男であり、その度に、彼女は怒って、夫を手で振りはらうようにした。
 こういう患者は僕の応接間へ現れたことはないが、世間にはかなり多いに相違なく、こういう患者をめぐって、ある種の宗教が発生しているに相違ない。それらの
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