教祖は別として、その信徒は何者なのだろう。何者でもなく、人間なのだろうか。いったい、精神病者とは、何者であるか。

 僕のいた東大神経科は、重症者を置かない。置く設備がないからである。廊下の出入口の一ヶ所に鍵がかかるだけで、個々の病室には鍵がかかっていない。窓に鉄の格子がはまって、脱出は不可能であるが、窓は普通の洋室の位置にあり、兇暴な患者は他の室へ乱入することもできるし、窓ガラスを割ることもできる。
 僕のいた部屋は、A級戦犯のO氏が発病直後送られた部屋で、発病直後は兇暴でこのガラス部屋は不向きであったから、松沢へ送られたそうである。東大の外来室では、千谷さんの見わけによって、重症であり、兇暴であると判断せられたものは、松沢へ送られる習慣であり、従って、僕の病棟では、脳梅毒患者をのぞいて、ひどい患者はいなかった。
 分裂病は二十歳前後に発病し、周期的にくりかえして根治することが先ずないので、入院患者も、三度目の入院とか六度目とかという古強者《ふるつわもの》が多い。然し、分裂病は智能を犯されることがないから、仕事に従事して才能ある限り、単に変り者と世間に目せられているだけで、終生精神病院のヤッカイになることなく、世をすごす人々が多くあるに相違ない。
 テンカンも、今では、それを一生欠かさず服用しつゞけていれば、発作を起さずにすむ薬があるそうである。ひどいのは脳梅毒だ。これは智能を犯される。つまり痴呆状態となる。肉体の条件がよければマラリヤ療法でくいとめることができるが、僕の居たとき病棟の廊下をうろついていた四十ぐらいの女の脳梅毒患者は、もう肉体力がなくて、マラリヤ療法を施し得ず、仕方なしに、ペニシリンを打ったり、人工栄養などで、ようやく生きて、痴呆状態で廊下をうろついている始末であった。こういう患者は結局狂死する以外に仕方がないということであった。
 問題は分裂病であり、又、鬱病、躁鬱病などの患者である。僕のいた病棟は重症者がいないのだから、病状について僕は良く知らないし、特に僕は一人だけの別室にいたから、廊下や便所ですれ違う以外に、他の患者とは特別の接触がなかった。
 僕の幻聴と絶望の苦痛にみちた発病当時、千谷さんが診察に来て下さって、すぐ入院させたいが、あいにく一人の部屋がふさがっており、今すぐ入院することの出来るのは五人の合部屋だという話であった。
 そのとき僕は精神病者というものを兇暴なものだと幻想しており、何よりも、僕自身、歩行も不可能で、防禦や抵抗の手段が失われているのだから、五人の合宿ということに、病的な恐怖をいだいた。
 そのとき石川淳が見舞いに駈けつけてくれて、合い部屋だっていゝじゃないか。たゞ眠るのだから、他人の存在は問題ではない。一時間、一分でも早く入院しろ。昔、吉原に割り部屋というものがあったし、汽車の寝台も割り部屋みたいなものであり、同じ部屋で寝ている奴が殺人犯だか強盗だか見当がつかなかった筈だが、それを怖れたこともなかったし、問題が起ったということもない。割り部屋だと思えば、なんでもないさ、と慰め、すすめてくれた。
 今は割り部屋がなくなったし、割り部屋があったら、いつ洋服など身ぐるみ盗んでドロンされるか見当もつかず、それだけ世間が平和じゃないんだ、と石川淳が、彼らしい述懐によって世相をガイタンしていたのを妙にハッキリ記憶している。
 ところが東大の神経科へ乗りつけたら、妙な偶然で、まだ退院には間があると思われていた患者が退院し、僕は一人だけの部屋へ入院することができた。衰えはてた僕は、その時ひどく安心したが、治療が終って、健康をとり戻して後は、むしろ五人の合部屋へ入院しなかったことを残念だと思った。僕は彼らの生態をこまかく観察する条件を失ってしまったのである。
 然し、廊下や洗面所や便所で、狂躁にみちており、無礼であり、センスを失い、ガサツな人々はむしろ概ね附き添いたちであり、患者は静かで、慎んでいるのが普通であった。

 僕の入院が知れ渡ると、新聞記者が写真班同伴で十何組も乗りつけて、千谷さんは、撃退するに手こずられた由であった。すると、僕が麻薬中毒だという説がとび、警視庁の三人の麻薬係が現れ、千谷さんはカルテを見せて説得するのに二時間もかかったとこぼしておられた。
 すると今度は、僕が精神病院の三階から飛び降り自殺をしたというデマで、又、十何組という写真班同伴の新聞記者に病院が大迷惑をかけられたが、その時、某新聞の記事に曰く、病院側が僕と記者との面接を拒否したことから次第にデマが生じた、と書いていた。
 こういう記事を書く社会部記者の教養を疑わざるを得ない。精神病患者の発病当時の苦痛というものは、他人と面会などのできる性質のものではないのである。数日間食事をとることもできず(肉体的にその機能を
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