ぎていることが、どうしても信じられないものである。この傾向は、治療としての持続睡眠にのみ有るものではなく、催眠薬の中毒病状がすべてそうで、入院直前、僕がアドルムを多量に用いて(四五十錠ずつ二十四五日間用いた)昏睡をもとめた時にも、ふと覚醒して、一夜ちょッと眠った自覚しかないのに、一週間がすぎており、どうしても信じられないことが三度ほどあった。
 持続睡眠療法も、アドルム中毒の場合もそうであるが、半覚醒時に、甚しくエロになった。全ての患者が、そうか、どうか、僕は知らない。然し、概してそうなるのが自然だろうと思われるのは、何人も性慾については抑圧しつゝあるものであり、又、催眠薬が、これらの抑圧を解放するというよりも、性慾の神経に何らかの刺戟を及ぼすものだと思われる。フロイド的な抑圧の解放を意味するものではなく、薬物に、それらの悪作用が附随しているだけのことで、なければ、ない方がよろしいであろう。この悪作用を伴わない催眠薬が発明出来れば、大変よろしいように僕は思った。
 東大で持続睡眠に用いるズルフォナールという催眠薬は半覚醒時にエロチックになるけれども粗暴にはならない。ところが、アドルムという催眠薬は、これを多量に連用した後の半覚醒時に、甚しく兇暴になるのである。アドルム中毒患者は、日本の学界にはまだ報告されておらず、僕が第一号であったと千谷さんの話であったが、僕が入院して一ヶ月半ほど後に、第二号が現れた。これは二十八の婦人で、おまけに、僕の倍量、百錠ずつ連用したというのだから、ムチャである。この患者も、甚しく兇暴性を現したということであった。
 僕自身の場合から推して、アドルムという催眠薬は、用法に良く注意しなければならない。定量の一錠、せいぜい二錠を限度にして、それ以上は決して用いない方がよろしい。
 アドルムは、何か地底へひきこむように睡眠へひきこむが、僕の場合は、一時間、長くて、一時間半で目が覚めた。又、服用する。又一時間で目覚める。又、服用する。こうして、次第に中毒してしまったのだが、何分、僕は、ムリに仕事をするために覚醒剤を多量に用いざるを得なかった。それだけ、又、ねむるためには多量の催眠薬を用いざるを得なかったことゝなり、要するに、生活が不自然でありすぎたのである。アドルム中毒は甚しい幻聴を伴い、歩行が不可能となり、極めて、不快であり、苦痛なものであるから、こういうことにならないように注意すべきだと思う。そんなことを云いながら、私は二ヶ月のうちに某雑誌社と手を切るために、五十六万円の借金を支払うため、書いて書きまくる必要にせまられており、どうも、二三ヶ月後に、又、精神病院へ逆戻りせざるを得ないのではないかという不安にも襲われている。僕は然し、それを克服するだけの意志力を持たなければならないということを信じており、必ず闘い勝つ、勝たねばならぬ、とも信じているのである。多分、僕は、勝つだろう。

 話がワキ道へそれてしまったが、僕が東大へ入院し、僕のうける療法が、持続睡眠と云って一ヶ月昏睡させるものだ、ときいた時に、僕が思いだしたのは、フロイドであった。つまり、昏睡させておいて、医者が暗示を与え、抑圧された意識を解放しよう、とするのではないかと疑ったのである。
 それは、ダメだ、ダメです、僕は幻聴だらけの眠れない夜、心に叫びつづけていた。僕は、精神の最も衰弱し、最も不安定の時期である故に、フロイドの方法が、療法として実は不可能だということを悟ったのである。
 つまり、最も精神の衰弱し不安定となっている僕は、何の暗示をうける必要もなく、あらゆる抑圧が、殆ど不可能になりつゝあり、そして、抑圧が不可能になりつゝあるということが、僕を最も苦しめ、病状を悪化させてもいるのであった。つまり患者としての僕がその時最も欲しているものは、たゞ一つ、抑圧、それに外ならなかったのだ。抑圧を解放してはならないのだ。あらゆる抑圧を解放すれば、人間がどうなるか、分りきっている。色と慾。たゞ動物。それだけにきまっているのだ。
 フロイドの方法は、理論的に、構成に巧みであるが、あそこから、決して実際の治療はでゝこない。
 僕個人の場合であるが、患者としての僕が痛切に欲しているものは、たゞ単に健全なる精神などという漠然たるものではなく自我の理想的な構成ということであった。
 大体、健全なる精神とは、何のことだろう。どこに目安があるのだろう。ある限度の問題かも知れないが、そんな限度は、患者としての僕にとって、問題ではなかった。
 僕はその時、思った。精神病の原因の一つは、抑圧された意識などのためよりも、むしろ多く、自我の理想的な構成、その激烈な祈念に対する現実のアムバランスから起るのではないか、と。
 僕が、恢復後、精神病者を観察して得た結論も、概して、そ
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