なんとなく先生のお宅まで行ってしまったのです」
「渡すもの、とは何ですか」
「たぶん原稿だろうと思いました。それしか考えられませんから」
ところが、その原稿は彼の寝室(兼書斎だが)になかったのである。書きかけのものもなかった。そして、久子の原稿の〆切はまだ先のことでもあった。
久子がこう申し立てているにも拘らず、神田の様子はそんな約束をしているようには思われないのだ。久子の来訪を待ちかねてはいたが、自ら約束の場所へでかけようとする様子はなかった。その気持があれば出かけることはできたはずだ。シャワーを早めにきりあげれば、行けたはずである。しかるに彼は悠々と十分間もシャワーをあび、寝室へひきあげてからもすぐに衣服をつけようとはせず、正午すぎて死ぬまで裸でいたのである。
「神社の前で待っておれと云ったのは神田先生本人の電話かね」
「神田先生御自身です。マチガイありません」
しかし、神田が久子に電話したのを聞いていた者はいなかった。もっとも、そのような秘密の電話を、人にきかれるようにかけるはずもない。
「無理心中でもするつもりが、にわかに気が変って自殺したんじゃないかな」
文作はそんな
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