れることはできない。自分自身が一時間後にどんな運命になるか、誰も知ってやしない。人に同情するなどとは身の程をわきまえぬ愚行であろう。
「なに、ここだけが戦場になるわけじゃありませんよ。おそかれ、早かれ、日本中がそうなるのです。私は、高いとか安いとか選り好みできるあなたの境遇がうらやましいと思ってますよ」
「じゃア、死ぬる思いですが、思いきって、四千円だします。四千円で売って下さい」
「いえ、いけません。五千円。最低の値をつけたのです。私は商売をしているわけではありません。五千円という捨て値は、まったくの捨て値で、損得勘定の根拠があるわけではありません。ひとつの気分でヒョイときめた捨て値です。愛着のこもったものを捨て去るときの悲しさをいたわってくれるものは気分だけです。私は気分をこわすわけにいきません。商取引のように、値切られたり、まけたりするわけにいかないのです」
 亮作は気違いじみた泣き顔をあげて野口を見つめた。ちょッとオドオドしてはいたが、いつもするような薄笑いの翳はなかった。
「五千円で買ったら、あなたは今日中に立退きますか。いえ、今日中に立退いて下さい」
「今日中はムリですよ。
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