かったことが、彼を助けてくれたのである。
それほどの長距離を走った自覚がないのに、彼は海岸にたたずんでいた。そして夜明けをむかえたのである。
わが家の跡には何もなかった。くずれた瓦礫の下に、書物の原形をそっくりとどめた灰もあった。みんな燃え失せたのだ。まだ東京には多くの家が残っているし、さらに多くの家が日本の各地には有るけれども、彼の住む家はもうどこにもない。
たった半日に、彼は無数の焼けた屍体を見た。見飽いて、立ちどまる気持も起らない。しかし、わが家の焼跡を見ると、悲しさがこみあげて、涙がとめどなくあふれた。そのあたりの路上や防空壕にも黒こげの屍体がころがっていたが、各々の焼跡に立っているのは、彼だけであった。
野口の自宅も工場も焼けていた。焼跡へ行ってみると、野口夫妻と子供たちが、墓の中から出て来たように、顔も手足も泥まみれに、かたまっていた。
みんなおし黙ってニコリともせず彼をむかえた。
「みんな焼けましたよ」
野口はつぶやいた。何も言いたくない、というような、不キゲンな声だった。
「私もみんな焼きました。残ったのは、私の着ているものだけです」
「命が助かっただけ、し
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