マクビはうち砕かれて、抵抗も言葉も失ってしまった。
 どうしても本だけは疎開しようと亮作は思った。それだけが二人の女に抵抗する手段のように思われた。本に対するやみがたい愛惜もたしかであった。
 ひねもす本のことだけが気にかかる。
「社長におねがいがあるのですが」
 と、亮作は野口にたのんだ。
「実は、疎開のことですが」
「疎開なさるんですか。結構ですね。早いが勝ですよ。どちらへ?」
「いえ、それがね」
「奥さんの伯母さんの所でしょう。大変なお金持だそうですね。羨しいですよ。こッちへも少し分けて下さい」
「ええ。家内と娘はそこへ疎開させますが、私はちょッと遠いものですから」
 亮作は家庭の不和を隠していた。誰にも知られたくなかったのである。
「遠いッたって、なんですか。持久戦ですよ。物資のあるところに限りますぜ。こんな小ッポケな工場を持ったおかげで、私なんか身動きができないから哀れですよ。田舎へひッこんで、新鮮なものをタラフク食べて、忙しい思いを忘れたいですよ」
「実はお宅の伊東の別荘の片隅をかしていただけたらと、あつかましいお願いなんですが」
 思いがけない申出に、野口の微笑が一時に消
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