すか。なるほど、タオルはなかったでしょうな。たしかに沐浴のあとでは、からだを天日にかわかしたでしょうな。しかし、失礼ですが、石器時代は貝塚とか云って、物をナマで食べていやしませんか。まア我々の食べ物は調味料もなし、豚のエサで、石器時代以下かも知れませんが、あのころは、また、穴居とも云いましたようですね。鶏小屋は変じゃありませんか。防空壕で起居なさる必要があるでしょう」
亮作は無言であった。野口は意地わるく追求した。
「さっそく、穴居すべきですよ。防空壕へ住みかえなさい。真の石器時代を体験すべきです。鶏小屋でごまかしては、いけないでしょう」
亮作は弱々しい笑いをうかべた。すると、口に泡がたまってきた。
「仰有る通りです。でも、急ぐことはありません。自然にそうせざるを得なくなりますから。日本は焦土になります。ここも焼けるか、吹きとぶか、どちらかです。みんな次第に穴居しますよ。ムリにすることはないのです。自然になされた状態に於て、はじめて体験の真理が会得されます」
「ほんとですね」
「むろんです」
「石器時代に毛布やフトンや着物がありましたかね」
「むろん、ないです」
「なぜ着物をきてらっしゃるのですか。戦災者特配の毛布は、うけとるべきではなかったですね。なぜ、お貰いになったのですか」
「いえ、それでいいのです」
「なぜですか。せっかくの自然状態を自ら裏切ってやしませんか」
「いえ、いいのです。今に、くれる物もなくなる時がきます。みんな、裸になる時がきます」
「それでも日本が勝ちますか」
「かならず勝ちます。『有る』思想は滅亡すべき性格です。『無』の思想には、敗北はないのです」
「あたりまえですよ。無より悪くはなりっこないにきまってますよ」
「いえ、無が有を亡すのです」
亮作の弱々しい目に妖光がたまっていた。神がかりの度がひどくなっていくようであった。
日本の諸都市のバクゲキがあらかた片づいて、夏がきた。
伊豆半島、特に伊東に敵が上陸してくるというので、気違いじみた騒ぎが起った。上陸に適した地勢で、おまけに鉄道の終点であり、敵はここを基地にして、首都へ東上する、そんな尤もらしい噂が流布して、ここが本土の最初の戦場になることを土地の人々が信じはじめた。
その流説を裏書するように、一個師団がゴッソリかくれて敵の上陸を待ちぶせることが出来るような洞穴が伊東の四周の山々に掘りまくられ、亮作もモッコ運びにかりだされた。
伊東から四方へ走る峠の細道は、家財を運んで本土最初の戦場を逃げる人々でごった返している。別荘の売物が諸方に現れて、ただのように値が下ったが、買い手がない。
野口もあきらめた。本土最初の戦場ではないにしても、東京にちかい太平洋沿岸が修羅場になるのは、おそかれ早かれ必然の運命だ。このへんの山という山、海という海が火をふいて、空という空を弾が走るにきまっている。すべての家も木も吹っとんで、一面にひっくりかえされた土地だけが残る。こんなところに住むのは、自殺するようなものである。
野口は軽井沢に別荘があるから、案外あきらめがよかった。吹きとばされる先に、別荘をうって、軽井沢へひッこむにかぎる。安くても、ただ吹きとばされるよりはマシである。よその別荘は売れなかったが、彼は売りつける自信があった。
いったい亮作は肌身放さぬ包みの中に、いくら持っているのだろうと野口は真剣に考えこんだ。
「梅村さん。私たちは軽井沢へひきあげようと思いますが、どうです、この別荘を買いませんか。土地ぐるみ、温泉ぐるみ、ただの一万。まるで捨てるようですが、あなたになら、一万でゆずりましょう」
亮作はモッコかつぎに出ていたから、町の様子は手にとるように知っていた。
持てる連中は大騒ぎだ。別荘や運びきれない物品が捨て値で売りに出ている。それでも買い手がない。町の人々は敵の上陸を信じこんでいるからだ。亮作がそれを信じないわけはなかった。しかし彼は持たないから、落付いており、あらゆる人々に穴居の運命が近づくのを見ているだけのことであった。
亮作は自分の家が欲しいと思っていた。焼けだされた当時は、住むべき家のないことが何よりの悲しさであったが、今はそれほどでもない。なぜなら、何百千万の同類ができたからである。しかし欲しくないことはない。
もしも捨て値の別荘を手に入れて運よく戦禍をまぬがれたらと亮作は思った。今の彼の運命は逆転してしもうのである。家をもてる小数の一人となるかも知れない。
町の中の別荘とちがって、野口の住居は平野のドンヅマリの田畑の中に孤立している。ひょッとすると、助かる可能性がある。あるいはこの町でただ一人の家をもてる人となるかも知れない。
そう考えると、むくむくと人生の希望がわいてきた。
しかし野口の言い値は法外であった。彼
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