あわせです。しッかりしなさい」
 険悪な顔、噛みつく声であったが、亮作には、人間味がこもって、きこえた。
 すがりつきたい思いであったが、野口の手を握るだけで精一ぱいであった。なつかしさに、胸がはりさけるようだ。彼は鳴咽して、数分は言葉もなかった。
「しッかりしなさい」
 野口はやさしく彼の肩に手をかけた。
「私はバカでした」
 亮作は、しゃくりあげた。
「そんなことを言っても、どうにもなりゃしませんよ。夥しい屍体を見たでしょう。利巧な人も、たぶん死んでることでしょうよ」
 野口は相変らず不キゲンだった。彼は死と闘ったのだ。助かるための努力だけが、怖しい一夜の全部であった。
 亮作も死に追いつめられた一夜の恐怖は忘れることができない。しかし、今となっては、生き残った恐怖の方が、まだひどかった。
「私に鶏小屋をかして下さい。私は、すべてのものを失いました。私はバカでした」
 亮作は、はげしく、しゃくりあげて、叫びつづけた。
「私をひとりぼっちにしないで下さい。お願いです。考えただけで、息がとまってしまいます。下男でも作男でも、なんでもします。伊東へつれてって下さい。鶏小屋へ住ませて下さい」
 野口の子供たちは、あきれて、目をそらした。
「あなたはフトンも衣類も疎開しなかったのですか」
「いえ、私は、いらないのです。私はひとりぼっちが怖しいのです。夜露をしのぐ屋根さえあれば、たくさんなんです。こんな怖しいところへ、私を見すてないで下さい」
「むろん助け合うことは必要です。しかし、奥さんの疎開先へいらしたら、どうですか。あなたは逆上して、いろんなことを忘れてらッしゃるようですね。屋根だけじゃありませんよ。フトンも、鍋釜もある筈ですよ。奥さんが待っておられますよ。心配しておられるでしょう」
「いえ、私は働かねばなりません。社長に見放されては、生きることができません」
「私の工場は焼けました。伊東にはチッポケな家があるだけです。私は、もう社長ではありません」
「私を見すてないで下さい」
 亮作は狂ったように鳴咽した。
 野口は苦りきって、目をそらしたが、思い返して、つぶやいた。
「とにかく工場の後始末に、私だけは四五日東京に残らなければなりますまい。あなたにも手伝っていただかねばならないことが有るかも知れません。それから先のことは、お互に分りゃしませんよ。私はどこかの工場へ勤めますよ。一工員にすぎません」
 彼はふりむいて、焼跡や防空壕をほじって品物を探しはじめた。

     売買

 亮作は野口にゆるされて鶏小屋にすんだ。床をはり、板で囲った。戦災者の特配品と、人々からの貰い物で、日常の用は最小限度に間にあった。彼は現金を持っていたが、食物以外には一文も使わなかった。タオルを持たなかったので、温泉につかると、からだの乾くまで、浴室にたたずんでいた。野口の家族たちは、彼に同情することや、物を与えることをやめた。
「梅村さん。利用ということを考えてはいかがですか。からだをふくにはタオルでなければならない筈はありません。なにも持たないといっても、全然代用品がないこともありますまい。ほらね。たとえば、あなたは肌身放さず腰にフロシキ包みを巻きつけていらっしゃるでしょう。あのフロシキだって、タオルの代りにはなるでしょう」
 そのフロシキには、かなりの現金がつつまれているらしい。いくらぐらいかしら、と野口の家族は噂していた。野口は言葉をつづけて、亮作をからかった。
「あなたはウチの鉈《なた》でエンピツをけずっていらっしゃいましたね。鉈は叩き割る道具ですが、どうでした、うまく削れましたか。ウチの者に仰有ればナイフぐらいお貸ししますよ。しかしナイフぐらいお買いになってはどうですか。まだ売ってる店を見かけましたよ」
「いえ、買いません。買いたいと思いません。お金が惜しいからではありません。私は貴重な体験を生かしているのです。私は考古学のまとまった資料や大切な文献をみんな焼いてしまいましたが、文献以上の資料を見出しているのです。それは私の今の生活を原始時代のものとみて、その体験を資料にし、実験しているのです。今までの学者は石器時代の遺跡を地下から発掘しましたが、私は生きている生活を発掘しているつもりなのです。八紘一宇の精神にも一致します。遺跡の発掘は米英的な科学にすぎませんが、私のは、学問の真髄、日本精神にのっとった唯一最後のものなんです。ここまでこなければ、考古学は分りません。そして、私が考古学に於て日本精神による方法の勝利を発見したように、米英の科学思想は究極に於て日本の復古精神に敗れますよ。日本全土が焦土と化した後に於て、米英の科学思想は逆に日本に弱点をつかれます。日本の勝利は近づいているのです」
「なるほど、石器時代を体験なすっていらっしゃるので
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