――いや、悪くとらないで下さいよ。大学教授でも、専門学者でもないあなたが集めた程度の書籍は、ちょッとした学者の本箱にはザラにあるにきまってますよ。強がりを仰有っては、いけませんね。それは、あなたの一生の愛着が本にこもっていることは分りますがね。しかし、戦争ですよ。命あってのモノダネですよ。足手まといの本なんか、売っちゃいなさい。そのお金で、片田舎の百姓家でも買って疎開先を用意するのが利巧ですよ。意地悪いようですが、本の疎開でしたら、あの鶏小屋は絶対にお貸し致しません。しかし、まさかの用意に、鍋釜、フトンでも分散しといて、イザというとき、逃げこもうという算段でしたら、あの鶏小屋をあなたに開け渡してあげます」
亮作は泣きそうな顔に微笑をうかべた。
「いえ、いいんです。私は疎開は考えません。一億玉砕の肚ですから。最後の御奉公ですよ。それに、日本は、負けやしません。最後には勝つのです。何年先か分りませんがね。そのとき私の残した本が、まア、いくらか、お役に立つでしょう。私はそれだけで満足です。ほかに思い残すこともありません」
「梅村さん。戦争は何百万の雷をあつめたように、容赦しませんよ。小さな負け惜しみや、小さな意地をはってみたって、なんにもなりゃしませんよ」
「いえ、なります。時間の問題ですから。軍は秘密兵器を完成しています。敵が図にのって、総攻撃に来たときに、奥の手を用いて一挙に勝利へみちびく。これが軍の既定の作戦なんです」
亮作は口に泡をためて無数にツバをふきながら言う。野口は微笑しながら、それを見つめた。ひどく感服したように。
「フトン、衣類、鍋釜でしたら、鶏小屋へ保管してあげます。まア、せいぜい、分散しておくことですよ。必需品ですから。そして、書籍などは、値のあるうちに、売り払いなさい。もっとも、タキツケの役に立つときが来るかも知れませんがね」
「ええ、まア、タキツケには、なりますね。戦国乱世には、皇居の塀や国宝の仏像で煖をとります。庶民は、仕方のないものです。私の本も、おなじ運命かも知れません」
野口は益々感服して首をふり、あきらめて、ふりむいた。
信子と克子は正月の休みに大伯母のもとへ行ったまま、学校へは診断書を送って、再び東京へ戻らなかった。
三月十日の空襲に、亮作も野口も焼けだされた。しかし、命は助かった。
亮作は大本営発表や、新聞などの景気のいい言いぐさを信用していたし、それまでの空襲の被害が少いので、タカをくくって、防空壕もつくらなかった。もっとも、彼の住むあたりは、土を掘ると水がわくので、手軽に防空壕もつくれなかった。
亮作は家財を一物も助けることが不可能であった。それでも命の助かったのがフシギなくらいであった。
この夜の空襲は、敵機が投弾を開始して諸方に火の手があがってから、ようやく空襲警報がでた始末で、亮作が身支度を終らぬうちに、バクダンの凄い落下音がせまりはじめた。それでも彼はまだ空襲の怖しさを知らなかったので、身支度だけは終ることができたし、現金の小さな包みを腹にまきつけることも出来たのである。
外へでると、火の手がせまっていた。目の前が、まッかなのだ。焼けた烈風が地を舐めて走り、いきなり顔を熱のかたまりがたたきつけた。彼は悲鳴をあげて、とびあがった。風下へ夢中に泣いて走っていた。
彼は逃げた道順がまったく分らない。逃げ足が早かったので助かったのである。常に火に追われ、火にさえぎられて、とめどなく、逃げまどっていただけだ。そして逃げのびる先々に、彼に安全感を与えるだけの堅牢な建物や防空壕や広い公園などのなかったことが、彼を助けてくれたのである。
それほどの長距離を走った自覚がないのに、彼は海岸にたたずんでいた。そして夜明けをむかえたのである。
わが家の跡には何もなかった。くずれた瓦礫の下に、書物の原形をそっくりとどめた灰もあった。みんな燃え失せたのだ。まだ東京には多くの家が残っているし、さらに多くの家が日本の各地には有るけれども、彼の住む家はもうどこにもない。
たった半日に、彼は無数の焼けた屍体を見た。見飽いて、立ちどまる気持も起らない。しかし、わが家の焼跡を見ると、悲しさがこみあげて、涙がとめどなくあふれた。そのあたりの路上や防空壕にも黒こげの屍体がころがっていたが、各々の焼跡に立っているのは、彼だけであった。
野口の自宅も工場も焼けていた。焼跡へ行ってみると、野口夫妻と子供たちが、墓の中から出て来たように、顔も手足も泥まみれに、かたまっていた。
みんなおし黙ってニコリともせず彼をむかえた。
「みんな焼けましたよ」
野口はつぶやいた。何も言いたくない、というような、不キゲンな声だった。
「私もみんな焼きました。残ったのは、私の着ているものだけです」
「命が助かっただけ、し
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