真珠
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)欠伸《あくび》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)クタ/\に
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 十二月八日以来の三ヶ月のあひだ、日本で最も話題となり、人々の知りたがつてゐたことの一つは、あなた方のことであつた。
 あなた方は九人であつた。あなた方は命令を受けたのではなかつた。あなた方の数名が自ら発案、進言して、司令長官の容れる所となつたのださうだ。それからの数ヶ月、あなた方は人目を忍んで猛訓練にいそしんでゐた。もはや、訓練のほかには、余念のないあなた方であつた。
 この戦争が始まるまで、パリジャンだのヤンキーが案外戦争に強さうだ、と、僕は漫然考へてゐた。パリジャンは諧謔を弄しながら鼻唄まぢりで出征するし、ヤンキーときては戦争もスポーツも見境がないから、タッチダウンの要領で弾の中を駈けだしさうに思つたのだ。ところが、戦争といふものは、我々が平和な食卓で結論するほど、単純無邪気なものではなかつた。いや、人間が死に就て考へる、死に就ての考へといふものが、平和な食卓の結論ほど、単純無邪気ではなかつたのである。人は鼻唄まぢりでは死地に赴くことができない。タッチダウンの要領でトーチカへ飛びこめるほど、戦争は無邪気なものではなかつた。
 帰還した数名の職業も教養も違ふ人から、まつたく同じ体験をきかされたのだが、兵隊達は戦争よりも行軍の苦痛の方が骨身に徹してつらいと言ふ。クタ/\に疲れる。歩きながら、足をひきずつて眠つてゐる。突然敵が現れて銃声がきこえると、その場へ伏して応戦しながら、ホッとする。戦争といふよりも、休息を感じるのである。敵が呆気なく退却すると、やれ/\、又、行軍か、と、ウンザリすると言ふのであつた。この体験は貴重なものだ。この人達は人の為しうる最大の犠牲を払つて、この体験を得たのであつた。然し、これが戦争の全部であるか、といふことに就ては、論議の余地があらうと思ふ。
 つまり、我々は戦争と言へば直ちに死に就て聯想する。死を怖れる。ところが、戦地へ行つてみると、そこの生活は案外気楽で、出征のとき予想したほど緊迫した気配がない。落下傘部隊が飛び降りて行く足の下で鶏がコケコッコをやつてゐるし、昼寝から起きて欠伸《あくび》の手を延ばすとちやんとバナナをつかんでゐる。行軍にヘト/\になつた挙句の果には、弾丸の洗礼が休息にしか当らなかつたといふ始末である。なんだい、戦争といふものはこんなものか、と考へると、死ぬなんて、案外怖しくもないものだな、馬鹿らしいほどノンビリしてゐるばかりぢやないか、と考へるのである。――だが、成程、これが戦争でないわけはないが、戦争の全部がたゞこれだけのものである筈はない。
 弾雨の下に休息を感じてゐる兵士達に、果して「死」があつたか? 事実として二三の戦死があつたとしても、兵士達の心が「死」をみつめてゐたであらうか?
 兵士達が弾雨の下に休息を感じてゐたとすれば、そのとき彼等は「自分達は死ぬかも知れぬ」といふ多少の不安を持つたにしても、無意識の中の確信では「自分達は死なぬであらう」と思ひこんでゐた筈だ。偶然敵弾にやられても、その瞬間まで、彼等の心は死に直面し、死を視つめてはゐなかつたのだ。
 このやうなユトリがあるとき、ヤンキーといへども、タッチダウンの要領で鼻唄まじりで進みうる。「必ず死ぬ」ときまつた時に、果して何人が鼻唄と共に進みうるか。このとき進みうる人は、たゞ超人のみである。
 つまり、戦争の一部分(時間的に言へばそれが大部分であるけれども)は鼻唄まぢりでも仔細はいらぬ。然し、勝敗の最後の鍵は、そこにはない。爆弾を抱いてトーチカに飛びこみ、飛行機は敵に向つて体当りで飛びかゝる。「必ず死ぬ」ときまつても、尚、進まねばならないのである。かうして、超人達の骨肉を重ねて、貴重な戦果がひろげられて行く。
 普通、日本人は、戦争といへば大概この決死の戦法の方を考へてゐる。さうして、こんな大胆なことが、いつたい、俺にも出来るだらうか、といふ不安に悩んでゐるのである。だから、召集を受けて旅立つとき、決して楽天的ではない。だが、パリジャンやヤンキーは楽天的だ。娘達に接吻を投げかけられて、鼻唄まぢりで繰込むのである。この鼻唄は「多分死にはしないだらう」といふ意識下の確信から生れ、死といふものを直視して祖国の危難に赴く人の心ではない。日本人はもつと切実に死を視つめて召集に応じてゐるから、陽気ではなく、沈痛であるが、このどちらが戦場に於て豪胆果敢であるかといへば、大東亜戦争の偉大なる戦果が物語つてゐる。必死の戦法といふものが戦争のルールの中になかつたなら、タッチダウンの要領でも、世界征覇が出来たであらう。
 必ず死ぬ、ときまつた時にも進みうる人は常人ではない。まして、それが、一時の激した心ではなく、冷静に、一貫した信念によつて為された時には、偉大なる人と言はねばならぬ。思想を、義務を、信仰を、命を捨てゝもと自負する人は無数にゐるが、然し、そのうちの何人が、死に直面し、死をもつて迫られても尚その信念を貫いたか。極めて小数の偉大なる人格が、かゝる道を歩いたにすぎないのである。
 ふだん飲んだくれてゐたつてイザとなれば命を捨てゝみせると考へたり、ふだんジメジメしてゐたのではいざ鎌倉といふ時に元気がでるものか、といふ考へは、我々が日常口にしやすい所である。僕は酒飲みの悪癖で、特に安易に、このやうな軽率な気焔をあげがちである。
 けれども、我々が現に死に就て考へてはゐても、決して死に「直面」してはゐないことによつて、この考への根柢には決定的な欺瞞がある。多分死にはしないだらうといふ意識の上に思考してゐる我々が、その思考の中で如何程完璧に死の恐怖を否定することが出来ても、それは実際のものではない。
 あなた方は、いはゞ、死ぬための訓練に没入してゐた。その訓練の行く手には、万死のみあつて、万分の一生といへども、有りはしなかつた。あなた方は、我々の知らない海で、人目を忍んで訓練にいそしんでゐたが、訓練についてからのあなた方の日常からは、もはや、悲愴だの感動だのといふものを嗅ぎだすことはできない。あなた方は非常に几帳面な訓練に余念なく打込んでゐた。さうして、あなた方の心は、もう、死を視つめることがなくなつたが、その代りには、あなた方の意識下の確信から生還の二字が綺麗さつぱり消え失せてゐたのだ。我々には夢のやうに掴みどころのない不思議な事実なのである。戦場の兵隊達は死の不安を視つめてゐても、意識下の確信には常に生還の二字があつて、希望の灯をともしてゐる筈なのだ。ところが、あなた方は余念もなく訓練に打込み、もう、死を視つめることがなかつたのに、あなた方のあらゆる無意識の隅々に至るまで、生還の二字が綺麗に拭きとられてゐたのである。あなた方は門出に際して「軍服を着て行くべきだが、暑いから作業服で御免蒙らう」などと呑気なことを言つてゐた。死以外に視つめる何物もないあなた方であるゆゑ、死はあなた方の手足の一部分になつてしまつて、もはや全然特別なものではなかつたのだらう。あなた方は、たゞ、敵の主力艦に穴をあけるだけしか考へることがなくなつてゐた。それすらも、満々たる自信があつて、すでに微塵も不安はないといふ様子である。「お弁当を持つたり、サイダーを持つたり、チョコレートまで貰つて、まるで遠足に行くやうだ」と、あなた方は勇んで艇に乗込んだ。然し、出陣の挨拶に、行つて来ます、とは言はなかつた。ただ、征きます、と言つたのみ。さうして、あなた方は真珠湾をめざして、一路水中に姿を没した。

 十二月六日の午後、大観堂から金を受取つて、僕は小田原へドテラを取りに行く筈であつた。三好達治の家へ置いたドテラや夜具が夏の洪水で水浸しとなり、それをガランドウが乾してくれた筈であつた。ガランドウは正確に言へばガランドウ工芸社の主人で、看板屋の親爺。牧野信一の幼友達でもあり、熱海から辻堂にかけて、東海道を股にかけて、看板を書きに立廻つてゐる。僕はこの男の書体を呑込んでゐるから、東海道の思はぬ所で彼の看板に会見して、噴きだしてしまふことがある。時には「酉水」などゝ雅号のやうなものを書込んでおくことがある。「酉水」は合せて一字にすると「酒」になるのだが、怪しげな雅号である。尤も、本人は年中こんな雅号を称してゐるわけではない。たま/\看板を書いてゐるうちに、その日の天気だの腹加減の具合で、ふと思ひついて書くのである。国府津《こうづ》駅前の土産屋の看板にも、たしか「酉水」が一枚あつた。
 僕は十月にも十一月にもドテラを取りに小田原へ行つた。ところが、当時は、まだドテラの必要な季節ではないから、つい面倒になつて、いつもドテラを忘れて戻つて来たのである。愈々冬が来たので、どうしてもドテラを取りに行かねばならぬ。
 ところが、十二月六日の晩は、大観堂の主人と酒をのみ、小田原へ行けなくなつて、誰かしら友人の家へ泊つてしまつた。かういふことが度々だから誰の家だかハッキリしないが、多分、若園君か松下君の所であらう。真夜中に迷惑かけるのは、大概、両君の所と極つてゐる。十二月六日の昼までは大井君の所に泊つてゐた。たしか「現代文学」の原稿を書き終つて大井広介を訪ね、二三日泊りこみ、それから大観堂へ出掛けて行つた筈である。大井広介の所では、平野謙を交へた三人で探偵小説の犯人の当てつこをして、多分、僕が惨敗した当日ではなかつたかと思ふ。大観堂へ出掛けるとき平野謙が居合したことだけ記憶してゐるからである。この時は惨敗したが、その次の時には平野謙が見るも無残に敗北し、大井広介が中敗、僕、完璧の勝利であつた。だから、十二月五日から六日へかけて、僕達は一睡もしてゐない。小田原へ行つたら魚を買つてきて下さい、と大井夫人に頼まれた。
 結局、小田原へ到着したのは十二月七日の夕刻であつた。
 ガランドウは国府津へ仕事に出掛けて、不在。折から彼の家で長男の元服祝ひ(なんのことだか分らないが、ガランドウがさういふ風に言つてゐたから、多分、元服祝ひなのであらう。長男は十七である)の終つた直後で、そのために近郷近在から掻き集めた酒、ビール、焼酒、インチキ・ウイスキーの類ひ無慮数十本の残骸累々とあり、手のつかない瓶もあつて、僕はそれを飲み、ガランドウが仕事から帰つて来たとき、僕は酩酊に及んでゐた。ガランドウも仕事の帰りに、国府津で飲んで、酔つ払つてゐた。子供達の夕餉《ゆうげ》のために、アカギ鯛を十枚ばかりブラさげ、国府津で見つけてきたけんどよ、小田原に魚がねえと言ふだから、話にならねえ、と言つた。
 アカギ鯛を見るに及んで、俄に大井夫人の依頼を思ひだし、生きた魚が手にはいらぬかと訊ねてみると、小田原では無理だが、国府津か二の宮なら金の脇差だといふ返事、ガランドウは翌日の仕事の予定を変更して、二の宮の医者の看板を塗ることゝなり、僕と同行して、魚を探してくれることにきめる。さうなると、ドテラをぶらさげて東海道を歩くわけには行かないので、ドテラの方は、又、この次といふことになつた。何のために小田原へ来たのだか、分らなくなつてしまつたけれども、かういふ本末顛倒は僕の歩く先々にしよつ中有ることで、仕方がない。
 翌日、七時すぎて、目を覚したがその気配に、ガランドウのおかみさんが上つてきて、オヤヂは朝早く箱根の環翠楼《かんすいろう》へ用足しに出掛けたけれども、昼までには戻つてくる。それから二の宮へ行くさうだから、と言ふがあんたの洋服着て、気取つて出掛けて行つたよ。へえ、さうかい。なんだか、戦争が始つたなんて言つてるけど、うちのラジオは昼は止つてしまふから。……
 東京の街の中では、このやうな不思議なことは有り得なかつた筈である。然し、昼間多くのラヂオが止つてしまふ小田原では、ガランドウの仕事場の奥の二階にゐると、何の物音もきこえなかつた。おかみさんの報告も淡々たるもので、僕はその数日のニュースから判断して、多分タイ国の国境で小競合《こ
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