ことがなくなつてゐた。それすらも、満々たる自信があつて、すでに微塵も不安はないといふ様子である。「お弁当を持つたり、サイダーを持つたり、チョコレートまで貰つて、まるで遠足に行くやうだ」と、あなた方は勇んで艇に乗込んだ。然し、出陣の挨拶に、行つて来ます、とは言はなかつた。ただ、征きます、と言つたのみ。さうして、あなた方は真珠湾をめざして、一路水中に姿を没した。

 十二月六日の午後、大観堂から金を受取つて、僕は小田原へドテラを取りに行く筈であつた。三好達治の家へ置いたドテラや夜具が夏の洪水で水浸しとなり、それをガランドウが乾してくれた筈であつた。ガランドウは正確に言へばガランドウ工芸社の主人で、看板屋の親爺。牧野信一の幼友達でもあり、熱海から辻堂にかけて、東海道を股にかけて、看板を書きに立廻つてゐる。僕はこの男の書体を呑込んでゐるから、東海道の思はぬ所で彼の看板に会見して、噴きだしてしまふことがある。時には「酉水」などゝ雅号のやうなものを書込んでおくことがある。「酉水」は合せて一字にすると「酒」になるのだが、怪しげな雅号である。尤も、本人は年中こんな雅号を称してゐるわけではない。たま/\看板を書いてゐるうちに、その日の天気だの腹加減の具合で、ふと思ひついて書くのである。国府津《こうづ》駅前の土産屋の看板にも、たしか「酉水」が一枚あつた。
 僕は十月にも十一月にもドテラを取りに小田原へ行つた。ところが、当時は、まだドテラの必要な季節ではないから、つい面倒になつて、いつもドテラを忘れて戻つて来たのである。愈々冬が来たので、どうしてもドテラを取りに行かねばならぬ。
 ところが、十二月六日の晩は、大観堂の主人と酒をのみ、小田原へ行けなくなつて、誰かしら友人の家へ泊つてしまつた。かういふことが度々だから誰の家だかハッキリしないが、多分、若園君か松下君の所であらう。真夜中に迷惑かけるのは、大概、両君の所と極つてゐる。十二月六日の昼までは大井君の所に泊つてゐた。たしか「現代文学」の原稿を書き終つて大井広介を訪ね、二三日泊りこみ、それから大観堂へ出掛けて行つた筈である。大井広介の所では、平野謙を交へた三人で探偵小説の犯人の当てつこをして、多分、僕が惨敗した当日ではなかつたかと思ふ。大観堂へ出掛けるとき平野謙が居合したことだけ記憶してゐるからである。この時は惨敗したが、その次の時には平
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