この飛行家も死の危険を冒して、たゞ東京をめざして我無者羅に飛んで来た。百時間に近い時間、満足に睡眠もとつてゐない。たゞ、東京。それが全てゞあつたのだ。普通の不時着の飛行機なら、先づ飛び降りて、住民の姿を認めれば、それに向つて駈けだすのが当然である。ところが彼は漁師の近づいたことも気付かなかつた。救ひを求めることも念頭になかつた。生死を共にした友人のことすら忘れてゐた。さうして、たゞ、同じ海辺を行つたり戻つたりしてゐたのである。
生命を賭した一念が虚しく挫折したとき、この激しさが当然だと思はずにはゐられない。これが仕事に生命を打込んだときの姿なのである。非情である。たゞ、激しい。落胆とか悲しさを、その本来の表情で表現できるほど呑気なものは微塵もない。畳の上の甘さはかういふ際には有り得ないのだ。
潜水艦が敵艦を発見して魚雷を発射したときは、敵艦の最も危険な時でもあるが、同時に、潜水艦自身も最も危険にさらされてゐる時である。けれども、潜水艦乗りは、自分の発射した魚雷の結果を一秒でも長く確めたいといふ欲望に襲はれる。魂のこもつた魚雷である。魂が今敵艦に走つてゐる。彼等は耳をすます。全てが耳である。爆音。見事命中した。すると、より深い沈黙のみが暫く彼等を支配する。言葉も表情もないさうである。
あなた方も亦、そのやうであつたと僕は思ふ。爆発の轟音が湾内にとゞろき、灼熱の鉄片が空中高く飛散した。然し、須臾にして火焔消滅、すでに敵艦の姿は水中に没してゐる。あなた方は、ただ、無言。然し、それも長くはない。
真珠湾内にひそんでゐた長い一日。遠足がどうやら終つた。愈々あなた方は遠足から帰るのである。死へ向つて帰るのだ。思ひ残すことはない。あなた方にとつては、本当に、ただ遠足の帰りであつた。
十二月八日に、覚悟してゐた空襲はなかつた。
三月四日の夜になつて、警戒警報が発令された。その時もその前日の同人会から飲み始めて、僕はいくらか酔つてゐた。大井広介、三雲祥之助の三人で浅草を歩き、金龍館へ這入らうかなどゝその入口で相談してゐるところであつた。浅草の灯が消え、切符売場の窓口からも光が消えた。ぶら/\歩きだすと、飛行機の音がきこえる。敵機かね? 立止つて空を仰いだ。すると街角にでゝ話してゐた三人のコックらしい人達が振向いて
「いや、あれはうちのモーターの音ですよ。あいつ、止め
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