れ」
「一時間だけね。でも、もう、あんなことしないでね。死んだ主人のこと考えると、可哀そうだから。とても可愛がってくれたんですもの」
「あゝ、いゝとも」
ともかく一安心。自宅の茶の間の灯の下でまぎれもなくキヨ子の姿を見ることができると、安堵の心は限りもない。御馳走を食べさせ自分は酒を呷《あお》って、ムリムタイに談じこむようにして、再び先日の不思議な思いを確認することができた。まさしく夢ではない。とりのぼせた一時の心の迷いではなく、まさしく目のあたり不思議な思い、たゞ一つ分らないのは女の心だ。
あんなに堅いことを言うくせに、その身悶えや、夢中のうちに激しくもとめる情の深さは、どういうことだろう。全裸の全身を男に見られることなど一向に羞恥を見せず、される通りに平然としているのであった。
キヨ子が商売女で有る筈はないが、最も下等な淫売と同じぐらい羞恥の欠けたところがある。断髪洋装ともなると、みんなコレ式のものかと、幸吉はその不思議にも、たゞ驚くばかりであった。
「こんど、いつ会ってくれるね」
「私は水曜日だけがヒマなのよ。あとの日は、洋裁の学校へ通ったり、残業の日だから。オバサンに知られるのイヤだから、会社へ電話ちょうだい。オバサンに羞しいから、今夜のことも言っちゃイヤよ」
「言うまでもねえやな。それじゃア、待つ身はつらいから、約束の日をきめるのはやめにして、私は電話をかけるよ。一週間に一度ぐらいはいゝだろう」
「うん、でもネ、やっぱり主人に悪いと思うから、あんなこと、もう、したくないのよ」
「マアサ、拝むから、旦那の帰還まで、つきあっておくれ」
「えゝ、その代り、誰にも言っちゃ、いけなくってよ」
と別れた。
然し、それからの水曜日に電話をかけると、今日は忙しいから、という。次の水曜には出張でいないという。
すると速達がきて、水曜ごとに同じ男の人から電話がくるのは会社の人たちに邪推されて困るから、私の方から遊びに行くまで待っていてくれ、と書いてあった。
それから一ヶ月ほどして、戦死の主人を考えると悲しくなるから、主人の生死にかゝわらず、もう自分のことは忘れてくれ、一生、独身で子供の養育につくすから、という手紙がきた。
★
それから一月ほど待ったがキヨ子はこない。
幸吉も次第に冷静となって、又、仕事に精がでるようになった。
幸吉は戦争このかた世の中が逆になったと思っていた。屋台のオデンは二十年来の商売であるが、昔は細々と食うのが精一杯で、少し景気よく飲むと、売る酒がなくなり、売る酒を買う算段もつかなくなった。
戦争になったら、さぞ困るだろうと思っていたのに、焼け野原がひろがるほど、もうかる。物価が上るほど、もうかる。終戦直後の半年ぐらいは超特別で、犬モツ猫モツ鼠でも肉気のものに菜ッパをまぜてカキまわして煮た奴を山とつんでおくと幾山つんでも売りきれる、長蛇の行列、財布などというものは半日の売上げを入れるにも役に立たず、お札というものは石油カンに投げこむ以外に手がないのである。
だから戦争、時代という奴は幸吉にはワケがわからず、まるでもう夢を見ている心持で、毎日山とつもって行く札束をアレヨと思うばかり、だからキヨ子を知った当座も、戦争と時代、ワケの分らぬ夢のつゞきのような気持で、なんとなく、そんな時代なんだな、という思いをぬけきることができなかった。
けれども飲食店休業令だのと風当りが強くなり、キヨ子にはふられる、人間なみに多少キモをつぶすような出来事も現れるうちには、幸吉も時代などという正体のわからぬ魔物をはなれて、自分一個の立場というものを自覚してきた。
あのアマは、ひでえ奴だ、と彼は思った。なんとか腹の虫のおさまることをしないと気持がすまない。ブン殴るというようなことじゃない。幸吉は生れてこのかた、女の子も男の子も殴ったことがなかった。
なんとかして、正体をあばいてやりたい。時代だの未亡人だの断髪洋装だのという幸吉には苦手のモヤモヤをつきぬけて、あのアマのからだの中の魂という奴をあばいてやる。要するに、もうダマされないぞ、このアマめ、ということなのである。
然し、もう一つ底をわると、畜生め、然しあのアマは、よかったな、ということになる。そして、なんとなく身のひきしまる情慾にかられるから、畜生め、覚えていやがれ、今度はこっちがダマしてやるから。今に、面の皮をむいてやるから、などと、あれこれと考える。考えたって、幸吉の頭で、どうなるものでもなく、そのうち、もう会わなくなって百三十日もすぎた一日のこと、幸吉は昼酒に酔っ払うと、水曜であるのに気がついて、よかろう、ひとつアマをからかってやろう、と思いついて、直接会社へのりこんだ。
なかなか大きな会社であるが、受付できくと、その人は三階
前へ
次へ
全8ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング