も洋々と溢れてきた。
 生きる気が無くなつたのではないのであるし、それに生きるとか、死ぬとか、差当つて其れを考へてみたわけでもないのに、その夜、催眠薬を多量にのんだ。自殺者は往々最も生きたい奴だと昔彼は考へたのだが、自分のやうな奴は殊に其の一人であつたらしいと思つた。薬をのんでから、彼は一時はひどく逆上してしまつてぼんやりするほど混雑したり、むやみに苦笑したり、時には泣き出したり、それに色々なことをめまぐるしく考へ出したのであるが、自殺者は別に勇気があるわけでさへない、無論、どう考へてみても是を気取れる筋合のものではないが、併し自殺者は必ずしも莫迦だとは結局思へなかつた。どつちみち、無駄な考へごとである。
 小笠原は微笑したいほどの遥かな愛情をもつて、沢山の麻油や孤踏夫人や又その愛撫を思ひ出しもしたのであるが、親愛なるものに訣別したがるかたくなな寂寥は、やはり其の時も有るには有つたらしい。とにかく、小笠原は死んだ。
 翌日、蒲団をはづれて、材木のやうに転がつてゐた。
 それから一月あまり過ぎたが、痴川は伊豆に逢ふことがなかつた。伊豆は死よりも冷酷な厭世家振つて、小笠原の自殺した現場へも告別式へも出なかつたので、誰に逢ふこともなかつたのである。痴川は伊豆を思ひ出す度に立腹したが、或る日急に思ひ立つて伊豆を訪ねた。伊豆に会つて、次のやうに言ふつもりであつた。
「俺達三人は皆んな莫迦者だ。広い生々した世界の中から狭苦しい五味屑のやうな自分の世界を区切つてきて後生大事に縋りついて、ちつぽけな檻の中で変に神経を鋭くして生きたくなつたり死にたくなつたり怒つたりしてみたところで仕様もない。まるで自分を牢獄へ打ち込んでゐるやうなものだ。ほかに世界は広々とひろがつてゐる。案ずるに君と俺は結局認めすぎるほど認め合ひ、頼りすぎるほど力にしあつているのが斯ういふ結果になつてゐるのだから、俺達は無意味に神経を絡ますことを止して単にざつくばらんに頼り合ひ、溌剌とした世界でもつと健全に愉快に生きねばならん」――
 痴川は道々斯う切り出す時の自分の勿体ぶつた様子を様々に想像することが出来たりして、ひどく意気込んでゐた。ところが伊豆の顔を見たとたんから、まるで思ひがけないことばかり思ひつくやうになつて、飛んでもない別のことをまくしたてた挙句に「お前のやうなスネークにはもう二度と会はん」と言つて、遂ひ又散々殴つたり蹴飛ばしたりして泣きほろめいて戻つてきた。
 さて窶《やつ》れた土左衛門は麻油を攫《さら》ふやうにして山の湯宿へ走つた。湯へせかせかと飛び込んでみたり、宿の親父と碁を打つかと思ふうちにスキーを担いで雪原へ零れてみたり、とにかく気忙《きぜわ》しく苛々うろつきまはつたすゑには、夜がくるとガッカリして消えさうな様子で縮こまつたりしてゐる。麻油は痴川に一向おかまひなしに、まるで自分の一存で来たやうな落付きやうで、ほかに相客の一人もない静かな廊下を闊歩して行つて湯につかつたり、スキーを習つたりしてゐたが、痴川と顔の会ふときには大概にやにやして煙草をくゆらし乍ら、又その上にも面白さうに笑ひ出したりするのである。さういふ麻油に、痴川は何かといふと愚痴りかけたり怒つたりした。
 ある夜のこと、麻油は鏡を覗き込んで化粧を直したり、それよりも自分の顔を余念もなく眺めたりしてゐたが、急ににやにやしてしよんぼりしてゐる痴川の方を振向いて、
「あたし、もう、小笠原さんの顔を本当に忘れちやつた。どうも思ひ出せない……」
 と、朗らかな声でさう叫んで、とても爽快に大笑ひした。
 痴川は俄にぎよつと顔色を変へて、それから暫くして思ひ出したやうに上体をよろめかせたが、今度はいきみたつて憤慨して、お前くらゐ冷酷で薄情な奴はないと喚いたり愚痴つたりしたあげくには、麻油に縋りついて到頭めそめそ泣き出してしまつて、
「俺だけは忘れないやうにしてくれ。俺はもう自分のれつきとした身体さへ、手で触れてみても実在するやうには呑み込めない頼りない人間だ。この気の毒な可哀さうな俺だけは忘れないやうに、頼む、お願ひだ……」
 と悲しい声を張りあげて、断末魔のやうに身体を顫はせて掻口説《かきくど》いてゐた。その痴川を麻油は母親のやうに抱いてやつて、けたたましく笑ひ出したが、
「いいの/\。大丈夫よ。貴方の顔は忘れつこないわ。だつて、とても風変りなんだもの……」
 麻油は又一頻り哄笑して、もう文句も言へずに麻油の腕の中でふんふん頷いてばかりゐる痴川を一層強く抱きしめ、優しく頬ずりして、汚い泪を拭いてやつた。



底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第一一年二号」
   1933(昭和8)年2月1日発行
初出:「文藝春秋 第一一年二
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